幕末剣術流派

北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう
特色:江戸四大流儀の一つ、「技は千葉」と言われた。北辰夢想流と一刀流から創始
    祖流である一刀流の免許段階を北辰一刀流では、
    八段階から三段階(初目録、中目録、大目録、奥伝に星王剣がある)に簡略化
     「瞬息心気力一致」を剣の主諦とする
     主な特徴として「鶺鴒の尾」(切っ先を動かして構える)等がある
    又、「北辰」の文字を一刀流に冠した意味は千葉家に置いて
    吉田唯一神道の北辰(北極星)信仰を生活原理として来た為である

千葉周作成政 <ちばしゅうさく なりまさ>(1794 年〜1855年)
名前/ 千葉周作
流派/ 北辰一刀流(開祖)
道場/ 日本橋品川町、神田お玉ケ池玄武館
門人/ 千葉栄次郎(次男、小天狗の異名)森要蔵(四天王)、海保帆平、
   清河八郎(浪士組創設)伊藤甲子太郎(新撰組参謀)藤堂平助(新撰組八番隊組長)etc
その他/ 陸前栗原郡花山村荒谷に生まれる
     様々な革新をし、現代剣道に多大な影響を与えた人物の1人
     祖父・千葉吉之丞常成幼少が磐城国相馬藩の剣術師範に付いていた時
     興じた北辰夢想流を父・幸右衛門成勝(改称:浦山寿貞)から実弟・千葉定吉と供に学ぶ
     周作は旗本・喜多村石見守正秀に仕え、小野派一刀流の浅利又七郎に師事する
     更には浅利の師・中西子正に学んだ
     その後見込まれて浅利家の養子になり、喜多村家を辞して剣術指南に没頭する
     だが次第に又七郎と剣に対する意見の食い違いが起こり
     妻・妻せつ女を伴って浅利家を去り、定吉と供に各国修行に回り
     ついには後日本橋品川町に道場を開いて北辰一刀流を興じ、
     それを火事で失ったため、神田お玉ケ池に移り玄武館を開いた
     その後も周作は天保六年から水戸藩に出張指南をし十六人扶持を給せられ、
     同十二年には藩校弘道館師範に任じられて馬廻役百石にまで昇格する
     弘化二年では神道無念流・斎藤弥九郎、鏡心明智流・桃井春蔵等と供に
     与力格二百俵で幕士に取り立てられている。
     安政二年(1855年)十二月十三日に六十二歳に往生し、
     浅草誓願寺内の仁寿院に葬られる...が後年、西巣鴨の本妙寺に改葬された

千葉定吉成道 <ちばさだきち>(1812? 年〜1879年)
名前/ 千葉定吉(千葉周作の実弟)
流派/ 北辰一刀流
道場/ 京橋桶町千葉又は小千葉
門人/ 坂本龍馬(塾頭?)、千葉重太郎(長男/後継ぎ)
     千葉佐那(長女/鬼小町の異名/坂本龍馬と婚約)千葉里幾(次女)千葉幾久(三女)etc
その他/ 実兄である千葉周作と供に父から北辰夢想流を学び、
     当初は周作の建造した玄武館を手伝っていたが、後に独立
     紆余曲折を経て京橋桶町に「小千葉」「桶町千葉」とも称された道場を設立
     玄武館同様多くの弟子を抱え、幕末の志士・坂本龍馬もこの門を叩いている
     やがて、定吉は鳥取藩池田家に召し抱えられた
 
坂本龍馬直柔<さかもとりょうま なおなり>(1835 年11月15日〜1867年11月15日)
名前/ 坂本龍馬、直陰(なおかげ)、才谷梅太郎、大浜浅次郎、高坂龍次郎、西郷伊三郎 etc
流派/ 小栗流(日根野弁治道場) 北辰一刀流(千葉定吉道場  塾頭!?)
所持刀/ 陸奥守吉行(姉、坂本栄から授かる)刀剣収集が趣味のため数多くの刀を所持
その他/ 土佐高知城下本町筋一丁目の郷士:坂本八平直足の次男で末子として誕生
     日根野弁治道場で小栗流の剣術を学び19歳の時「小栗流和兵法事目録」を授かる
     同年3月に江戸に出て、お玉が池の玄武館、桶町の千葉定吉道場で剣の修行した
     その後、修行期限切れの為一時帰国しその時「小栗流和兵法一二箇條兵併二十五箇條」
     を授かり、再び江戸へと出立すると龍馬は「北辰一刀流長刀兵法目録」を伝授される
     因みに龍馬が北辰一刀流で授かった現存する許状は今の所これのみである
     土佐藩邸諸流試合で今武蔵と言われた二刀流の使い手、島田逸作に圧勝
     桃井道場主催剣術大会にて桂小五郎との決勝戦で勝利(史実では無い)
     特筆すべきは師・勝海舟と同じく生涯人を斬らなかった
     彼は伝統派の小栗流と当時では革命的とも云える北辰一刀流を
     自己の中で巧く調和させ独自の剣法へと昇華させた剣術の達人だと見解できる
     因みに龍馬暗殺時に彼は初太刀で額を横一線斬られ、二ノ太刀肩から背中に傷を受け、
     三ノ太刀を刀の鞘で受け止めた
     実際、刀で切られると身体が硬直し動けなくなるのが常だが
     龍馬は三ノ太刀で見事に防御態勢をとっている。これこそが熟達した者の証であろう

神道無念流(しんどうむねんりゅう)
特色:江戸四大流儀の一つ、「力は斎藤」と言われた
    「自戒・自律」の精神を重んじた道徳色も強い
 
福井兵右衛門嘉平<ふくいひょうえもん かへい>(1702 年〜1782年)
名前/ 川上善太夫、福井兵右衛門
流派/ 神道無念流(開祖)
道場/ 江戸四谷に道場、門奈弥一郎邸内に道場
門人/ 戸賀崎知道軒 etc
その他/ 下野国都賀郡藤葉村の人
     新神陰一円流二代目・野中権内玄慶の門人であったと云う
     因みに新神陰一円流とは上泉信綱の弟子・野中新蔵成常が興した流派である
     福井は当初、流名を無念流と名乗り信州飯綱権現の夢想を修得後、
     宝暦(1751〜1764年)からは神道無念流と称する様になった
     晩年は弟子・戸ヶ崎熊太郎の道場に身を寄せ八十一歳で死去した
     
戸賀崎熊太郎暉芳 <とがさきくまたろう てるよし>(1744 年〜1809年)
名前/ 戸賀崎熊太郎・知道軒
流派/ 神道無念流(二代目)
道場/ 江戸麹町に道場
門人/ 大橋寅吉(仇討ちで有名) etc
その他/ 埼玉郡上清久(久喜市上清久)の農民・戸賀崎元右衛門の子として生まれる
     16歳で江戸に出て神道無念流を学び、21歳の時に免許皆伝そ授かる
     その後、故郷にて道場を開くと供に全国へ武者修行の旅に出る
     次第に門弟も3000人と大幅に膨れ上がり晩年は弟子の育成につとめる
     また新田義貞の末裔と云われたり、高山彦九郎とも関係を持っていた様だ

岡田十松吉利<おかだじゅうまつ よしとし>(1765 年〜1820年)
流派/ 神道無念流
道場/ 撃剣館
門人/ 斎藤弥九郎、芹沢鴨(新撰組局長)、永倉新八(新撰組二番隊組長)、藤田東湖
        秋山要助、江川太郎左衛門、渡辺崋山 etc
その他/ 埼玉郡砂山村(羽生市砂山)の生まれ
     15歳で神道無念流を学ぶ為、志多見村(加須市志多見)の松村源六郎の内弟子となり
     その後、戸賀崎暉芳道場に入門し23歳で免許皆伝を授かる  

斎藤弥九郎善道 <さいとうやくろう なおみち>(1798 年〜1871年)
流派/ 神道無念流(三代目)
道場/ 九段坂上三番町の錬兵館
   (学問も重宝しており政治道場とも言われる、特に長州藩士勢に好まれる)
門人/ 斎藤新太郎(後継ぎ)、桂小五郎(初代塾頭)、斎藤歓之助(大試合に弱い)、仏生寺弥助etc
その他/ 越中氷見郡仏生寺村の農民出身
     江戸にて岡田十松に神道無念流を学ぶ。29歳で独立を果たし道場「錬兵館」を開く
     だが天保九年(1838年)三月の火事の為に三番町へと移転、
     しかし是も明治四年(1871年)に招魂社の境内に指定された為に牛込見附内へと移る
     弥九郎は74歳で死去、遺体は山荘内に葬られた
     因みに二代目・斎藤弥九郎龍善(長男・新太郎)は墨田村に道場開設している

仏生寺弥助<ぶっしょうじ やすけ>(? 年〜1867年)
流派/ 神道無念流
その他/ 越中仏生寺村の農民で、斎藤弥九郎に命じられ錬兵館の風呂番をしていたが
     同時に神道無念流を学び十七歳で免許皆伝とまでなった
     正に天才的技術の持ち主であったが素行が悪く、諸国を流浪し賭博の用心棒等をした挙句
     慶応3年(1867年)に京都で暗殺されてしまった

桂小五郎 <かつらこごろう>(1833 年〜1877年)
名前/ 桂小五郎、木戸貫治、木戸準一郎、木戸孝允
流派/ 神道無念流(塾頭)
所持刀/ 長船清光
その他/ 長州萩城下で、藩医・和田昌景の次男として誕生
     8歳の時に桂九郎兵衛の養子となり家督を継ぐ
     藩校・明倫館にて吉田松陰の講義を受け山鹿流兵学を教授される
     20歳になると自費を使い江戸へと遊学し、西洋兵学・砲術を江川太郎左衛門から
     造船を中島三郎助から、蘭学を手塚律蔵から
     そして剣術は斎藤弥九郎に学び、後に錬兵館初代塾頭となった
     25歳で藩の公職に就き、26歳で大検使・江戸番手に奉職
     30歳で祐筆に取り立てられ政務役になる
     安政の大獄で松陰が処刑されると、
     高杉晋作・久坂玄瑞らと並ぶ長州藩尊攘派のリーダーとなる
     1862年、長州の藩論を公武合体から尊王攘夷に転向させるが8月18日政変後に追放
     その後も池田屋事件・禁門の変・第一次長州征伐などの事件が続く中
     京に潜伏し巻き返しを狙う。この間は大村益次郎以外に居場所を伝えなかったそうだ
     また、追手がくると剣を抜かずに逃げ続けた事から「逃げの小五郎」とあだ名された
     坂本竜馬・中岡慎太郎から薩長講和を持ち掛けられ、
     下関で西郷と会見しようとするがすっぽかされ激怒するが、
     再び坂本竜馬らに説得され1866年、薩摩屋敷にて「薩長同盟」を結ぶ
     坂本龍馬に薩長同盟の確認裏書きを頼み、薩長間を奔走して倒幕挙兵を協議していく
     1867年、王政復古が宣言されると翌年、新政府の参与となり
     「五箇条の御誓文」起草に参画した後、版籍奉還や廃藩置県に大きく貢献
     岩倉遣欧使節団の一員となって1871年に渡欧。帰国後は、賛成であった征韓論に反対
     そして、西郷隆盛を下野させ後に征台論を唱えた大久保利通とも対立し、辞職
     1877年、西南戦争中に脳腫瘍の為に死去


鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)


特色:江戸四大流儀の一つ、「位は桃井」と言われた
    品格第一とされ幕府の講武所にも用いられる

桃井八郎左衛門直由<もものいはちろうざえもん なおよし>(生歿年不詳)
名前/ 桃井直由
流派/ 鏡新明智流(開祖)
道場/ 江戸日本橋南茅場町に士学館
その他/ 大和郡山柳沢家を致仕した後に
     一刀流、柳生流、無辺流槍術、戸田流抜刀術、堀内流などの流儀を学んだ


桃井春蔵直正<もものいしゅんぞう なおまさ>(1826 年〜1885年)
名前/ 田中甚助、桃井春蔵
流派/ 鏡新明智流(四代目)
道場/ 八丁堀アサリ河岸士学館
門人/ 武市半平太(士学館塾頭、土佐勤皇党頭領)、岡田以蔵(人斬り以蔵)
    上田馬之助、田中光顕etc


武市半平太瑞山<たけちはんぺいた ずいざん>(1829 年〜1865年)
名前/ 武市半平太、武市瑞山、柳川左門
流派/ 一刀流(千頭伝四郎)、小野派一刀流(麻田勘七)、鏡新明智流(桃井春蔵道場塾頭)
門人/ 中岡慎太郎(陸援隊隊長)岡田以蔵(人斬り以蔵)島村衛吉 etc
その他/ 土佐長岡郡仁田郷吹井村に生まれる。坂本龍馬の遠い親戚にあたる
     文武両道に秀で安政3年には藩命で江戸へ行き、
     鏡新明智流の桃井春蔵(桃井道場)に入門し、その後塾頭に抜擢
     帰国後、土佐勤皇党を結成し活動の隔たりとなる吉田東洋の暗殺を那須信吾等に命じる
     彼は白札の身分でありながらも一時的に実質上土佐藩の実権を握った

岡田以蔵宣振 <おかだ いぞう よしふる>(1838 年〜1865年)
名前/ 岡田以蔵、土井鉄三
流派/ 鏡新明智流
その他/ 郷士岡田儀平宜之の子として生れる
     独自の鍛錬を積み武市道場で学んだ後、武市半平太と共に桃井道場に入門
     その後、武市半平太を筆頭とする土佐勤皇党に入り彼と常時行動を共にする
     初の暗殺は下横目の井上佐一郎、これを期に次々と暗殺を繰り返す
     本間精一郎暗殺の際には薩摩の人斬り田中新兵衛と手を組む
     後に以蔵の将来を安じた坂本龍馬の頼みで
     本来なら敵である幕府の要人、勝海舟の護衛をも勤めた


直心陰流(じきしんかげりゅう)

特色:防具による試合稽古を創始、実戦的稽古が評判となった
    心胆の錬磨を強調した重厚な剣技
    門人には特に幕臣が多かった

山田平左衛門光徳 <やまだへいざえもん こうとく・みつとく>(生歿年不詳)
名前/ 山田平左衛門
流派/ 直心陰流(鹿島正伝直新影流・開祖)
道場/ 江戸西久保


長沼四郎左衛門国郷<ながぬましろうざえもん くにさと>(1688 年〜1767年)
流派/ 直心陰流
その他/ 防具を発明


男谷精一郎信友<おだにせいいちろう のぶとも>(1798 年〜1864年)
流派/ 直心陰流
門人/ 榊原鍵吉 etc
その他/ 大石進との試合


島田虎之助見山<しまだとらのすけ けんざん>(1814 年〜1852年)
流派/ 直心陰流
門人/ 勝海舟(幕府軍艦奉行並)、宇野金太郎 etc


榊原鍵吉友善<さかきばらけんきち ゆうぜん>(1830年〜1894年)
流派/ 直心陰流
道場/ 車坂道場
その他/ 麻布広尾の榊原邸で生まれる
     撃剣会創始者
     墓石は四ツ谷寺町西応寺に葬られている


勝安芳<かつやすよし>安政6 年〜明治32年(1823 年〜1899年)
名前/ 勝海舟、勝麟太郎
流派/ 直心陰流
門人/ 坂本龍馬 etc


大石神陰流(おおいししんかげりゅう)
特色:左手突きなど多彩な突き技などが特徴的

大石進種次<おおいしすすむ たねつぐ>(1797 年〜1863年)
流派/ 大石神陰流(開祖)
道場/ 柳川藩道場
門人/ 大石進種昌 etc
その他/ 男谷精一郎と勝負して勝利、しかし白井亨との勝負には完敗


心形刀流(しんぎょうとうりゅう)
特色:江戸四大流儀の一つ、幕府の講武所に特に用いられた
    一刀の技、二刀の技、小太刀の技等があり技が多彩であるのが特徴
    極意に「本心」を置く
 
伊庭是水軒秀明<いばぜすいけん ひであき>(生歿年不詳)
名前/ 伊庭是水軒
流派/ 心形刀流(開祖)
道場/ 江戸下谷に道場


伊庭軍兵衛秀業<いばぐんべえ ひでなり>
名前/ 伊庭秀業
流派/ 心形刀流(八代目)


伊庭八郎治<いばはちろうじ>(1843 年〜1869年)
名前/ 伊庭八郎
流派/ 心形刀流
その他/ 幕末一の美剣士と名を馳せる。
     子供の時は虚弱体質で父・軍兵衛の死後剣術修行を開始、後に養父をも凌ぐ達人となる
     奥詰隊の一員として上京、後に奥詰隊の名が遊撃隊に変更され指揮を取る
     箱根での戦いで負傷し榎本武揚降伏の六日前に亡くなる


柳剛流(りゅうごうりゅう)

特色:幕末の関東で北辰一刀流と共に門人が多かった
    相手の脛を斬る「跳び斬り」の太刀が特徴的な剣


岡田惣右衛門寄良 <おかだそうえもん よりよし>(1765 年〜1826年)  
名前/ 岡田惣右衛門
流派/ 柳剛流(開祖)
道場/ 本郷森川町に道場
その他/ 葛飾郡惣新田村字九郎新田(幸手市惣新田)の生まれで、一橋家家臣
     心形刀流の後に三和無敵流を修得し、武者修業の後に柳剛流を創始


自顕流系統

天真正自顕流(てんしんせいじげんりゅう)

 
十瀬与三衛門長宗<とせよざえもん ながむね>(生歿年不詳)
流派/ 天真正自顕流(開祖)
 

赤坂弥九郎(善吉和尚) <あかさか やくろう>
名前/ 赤坂弥九郎、善吉和尚
流派/ 天真正自顕流


示現流(じげんりゅう)
特色:薩摩藩の御流儀
    打棒による立木打ち等が知られる。
    秘伝に「蜻蛉」と言う独特な構えからの必殺の太刀がある
    新撰組局長近藤勇も「薩摩の初太刀ははずせ」と注意している
    また流名の由来は島津義久から招かれた禅僧・文之に
    「自顕ハ即チ示現ナラム」なる書を授かり、示現流という名が誕生したと云う


東郷藤兵衛肥前守重位<とうごうとうべえびぜんのかみ しげたか>(1561 年〜1643年)
名前/ 東郷重位、東郷肥前守重位
流派/ 示現流(開祖)
道場/ 薩摩藩道場
門人/ 長谷場四郎次郎、薬丸兼陳 etc
その他/ 薩摩島津家の臣・東郷重為の二男として誕生
     まずタイ捨流を丸目蔵人佐の高弟・藤井六弥太から学んだ
     天正末年に上京し、京都天寧寺の僧・善吉から秘術を伝授されたと云う
     帰国後は多くの試合をこなし全てに勝利した。その数は47度とも57度とも云われている


田中新兵衛<たなかしんべえ>(1832 年〜1863年)
流派/ 示現流
その他/ 幕末三人斬りの一人、後に多発する天誅の第一人者


野太刀自顕流(のだちじげんりゅう)
特色:通称薬丸流、示現流の一派ともいわれている

薬丸長左衛門兼武 <やくまるちょうざえもん けんぶ>(生歿年不詳)
流派/ 野太刀自顕流(開祖)
門人/ 薬丸兼義(実子) etc
その他/ 示現流を拒絶し、家伝の野太刀流を野太刀自顕流に改名した


薬丸半左衛門兼義 <やくまるはんざえもん かねよし>
名前/ 兼包、兼義
流派/ 野太刀自顕流(二代目)
門人/ 有村次左衛門(桜田門外の変にて井伊直弼の首を切る)奈良原喜左衛門(生麦事件)
    中村半次郎(人斬り半次郎)


中村半次郎<なかむらはんじろう>(1838 年〜1877年)
名前/ 中村半次郎、桐野利秋(きりのとしあき)
流派/ 野太刀自顕流
その他/ 人斬り半次郎の名で知られる薩摩藩士
     西郷隆盛を深く尊敬し彼のために死力を尽くす



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