中条流系統

中条流(ちゅうじょうりゅう)
 
中条兵庫頭入道長秀<ちゅうじょうひょうごのかみ ながひで>(1348? 年〜1384年)
名前/ 中条長秀
流派/ 中条流(中条流平法・開祖)
門人/ 鐘巻自斎 etc
その他/ 従五位下中条出羽守景長の次男として生まれる
     兄・出羽守時長が奥州に領土を得た為に、父の後を継ぎ三河挙母城主となった
     念流・相馬慈恩に学んだとされる(慈恩の師・寿福寺神僧栄裕から学んだ可能性も)
     又1356年〜79年にかけて、歌人の名としても知られている
     兵法としては小太刀を主に争わず敵を制する事に重点を置いている
 

富田流(とだりゅう)
 
富田九郎右衛門長家 <とだくろうえもん ながいえ>(生歿年不詳)
名前/ 富田九郎右衛門(正しくは九郎左衛門)
流派/ 富田流(開祖)
その他/ 中条流を大橋勘解由左衛門から学び、そのまま継承
     しかし富田家が関与した為にか流名も富田流に変わる
     三代目・富田治部左衛門景政が前田利家に仕た後には富田流は前田家の御家流となる
     
富田越後守重政<とだえちごのかみ しげまさ>(1564 年〜1625年)
名前/ 富田越後守
流派/ 富田流
門人/ 富田一放(一放流) etc
その他/ 山崎流山崎左近将監景成の弟・富田景政に
     認められて富田家入りを果たし、富田流を継いだ
     以前は朝倉家に仕えていたが、のち前田利家に仕えた
     天正18年八王子城攻め、慶長5年栗津、慶長8年大聖寺城攻め等で
     5つの戦功を挙げ、遂には将軍家兵法指南役・柳生宗矩の一万石を凌ぐ
     一万三千六百七十石もの禄高を得ている
     彼は摩利支天の崇拝者でもあり、馬上でのその姿はまるで摩利支天その者であったと云う
 

戸田流(とだりゅう)
 
富田五郎左衛門勢源<とだごろうざえもん せいげん>(1519 年〜?年)
名前/ 富田勢源、戸田清玄吉方(同一人物!?)
流派/ 戸田流(開祖)
門人/ 鐘巻自斎、川崎鑰之助(東軍流)、長谷川宗喜(中条流)、山崎左近将監(中条流) etc
その他/ 様々な諸説があり真相は未だ謎である
     越前朝倉家の臣・富田治郎左衛門景家の子として生まれる
     また弟・景政の養子となったのが、名人越後と謳われた重政である
     主に中条流を学び、眼病を患ったので家督を弟・景政に譲り隠居生活にはいる
     国主・斎藤義龍の剣術指南役で神道流の使い手梅津某に試合を挑まれる
     隠居の身の為断るが、執拗な兆戦の為やむを得ず承諾する
     場所は武藤淡路守屋敷。勝負は一撃、瞬く間に勢源が勝利を納めた
 

心極流(しんきょくりゅう)
 
長谷川六左衛門宗喜<はせがわろくざえもん そうき>(生歿年不詳)
名前/ 長谷川宗喜
流派/ 心極流(開祖)
その他/ 中条流の富田治郎左衛門景政の高弟で富田三家と称される
     小太刀を得意とし、長谷川流そして豊臣秀次の兵法指南役を勤めた
     後に豊臣家を退き流名も心極流に改める
 

東軍流(とうぐんりゅう)
 
川崎鑰之助時盛<かわさきかぎのすけ ときもり>(生歿年不詳)
名前/ 川崎鑰之助
流派/ 東軍流(東流とも・開祖)
その他/ 越前朝倉家御用人・川崎新九郎時定の子として誕生
     剣術は鞍馬八流の使い手であった父・時定から学ぶ
     その他、剣術を富田勢源に槍術を富田午生に学び様々な流派を取得
     朝倉家滅亡後に際して鑰之助は比叡山の東軍権僧正に刀術を学び
     これに習って東軍流とした
 

鐘巻流(かねまきりゅう)

特色:小太刀、中太刀からの攻撃を得意とする
 
鐘巻自斎通家<かねまき じさい みちいえ>(生歿年不詳)
流派/ 鐘巻流(外他流、中条流・流祖)
門人/ 伊藤一刀斎、佐々木小次郎 etc
その他/ 遠州秋葉の生まれ
     山崎左近将監・長谷川宗喜らと共に富田三家と謳われた人物
     剣術は越前で富田治郎左衛門景政に学んだ
     (逸話に愛宕山の勝軍地蔵を参拝して剣の妙理を悟ったと云う)
     門弟には一刀流開祖・伊藤一刀斎や
     巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎らが名を連ねている
     

一刀流(いっとうりゅう)

特色:受けるとともに打つ一の太刀「切落し」が特徴
        秘伝として敵の殺意や殺気に対し無意識的に抜き打ちにする「無想剣」、
    敵の打ちこみに対しその懐に入り身を屈め廻りながら
        払うように刀を使う「払捨刀」等がある
 
伊藤一刀斎景久<いとういっとうさい かげひさ>(1550? 年〜1653?年)
名前/ 前原弥五郎友景、伊藤弥五郎、戸田一刀斉、伊藤一刀斉
流派/ 一刀流(一刀斎流・開祖)
所持刀/ 瓶割
秘伝/ 切落し、夢想剣、払捨刀 etc
門人/ 小野忠明、小野善鬼、古藤田俊直、伊藤忠一、梶正直(梶派)、間宮久也(間宮派) etc
その他/ 塚原ト伝・上泉信綱と共に剣聖とうたわれる人物の一人
     現代剣道に最も影響を及ぼしたと云われる流派こそ、彼の創始した一刀流である
     一刀流自体の流名は広く知られているが、伊藤一刀斎自身について知るものは少ない
     理由としては彼の経歴を裏付ける史料が極少数のためだ
     出生は近江の堅田と伊豆国大島の説が主流とされ、他にも加賀・越前等の説がある
     幼名:前原弥五郎と称していた彼は板子一枚で郷里を出奔する
     半島に住む人々が「島鬼が来た」と騒いだ為、彼は「鬼夜叉」を自称する
     伊豆の三島神社の床下を居住とし、自作であろう木剣を携えて剣術の稽古に励んでいた所
     彼に興味を覚えた神官:矢田織部に富田一放(一放流を開いた剣豪)との立会いを薦められ
     試合を挑み一放を一撃のもとに打ち倒している(弥五郎:当時13歳〜14歳)
     後年、鎌倉鶴岡八幡宮お告げを求め参籠するが全く効果が無い為に、
     立ち去ろうとした直後、背後に忍び寄る者の殺気のみを感じ取り、
     思慮分別無く振り返りざまに人影を一刀の元に切り捨て、無想剣を編み出した
 
小野次郎右衛門忠明<おのじろうえもん ただあき>(1565 年〜1628年)
名前/ 神子上典膳(みこがみてんぜん)、小野忠明
流派/ 小野派一刀流(一刀流ニ代目)
所持刀/ 瓶割(後継)
その他/ 安房国朝夷郡丸村御子神の父・御子神重と母・小野氏の子として生まれる
     幼い頃から関東兵法・新当流を、神子上典善の時には三神流・山本嘉助勝之に学ぶ
     後に典善は「関東には並ぶ者無し」と自負し、
     伊藤一刀斎に勝負を挑みその弟子である小野善鬼と立会い見事完敗
     そのまま一刀斎に師事し、師と共に諸国を廻り修行に励む
     上総の小金ヶ原では一刀流後継と徳川家仕官の座を賭け
     兄弟子・小野善鬼との真剣勝負に勝利して一刀流を継承した
     その後、徳川家に仕え二代将軍秀忠(当時15歳)の個人師範兼身辺警護役を勤める
     慶長5年関ヶ原合戦前夜の信州上田城攻での軍功で、
     「上田の七本槍」の1人に数えられる。が、軍紀に触れお預けとなり
     大阪の陣に際しても旗本間でのいざこざを起こし閉門となってしまう
     だが秀忠の側を離れたとして軍律違反に咎められてしまう
     剣術指南でも手心を加えぬ粗野な教授に、次第に一方の師範・柳生流の方が人気となる
     柳生宗矩が一万石以上の大名の取立てに対し、忠明が六百石であったのはその為である
     しかし剣術に置いては恐ろしく強く、ある時柳生方へ出向いた際に
     高弟・木村助九郎、村田与三、出淵平八の三人を1度にかからせ難なくあしらったと云う
 
小野善鬼<おの ぜんき>(? 年〜1592年)
流派/ 一刀流(2代目候補)
その他/ 前身は淀川で船頭を営んでいた
     ある時、伊藤一刀斎に出会いその実力に感服して弟子入りする(一番弟子)
     以後一刀斎に伴い諸国を廻り、立ち合いを求められた場合は善鬼が全て相手をして
     その全ての試合に勝利したと云う
     確かに力量では典膳を上回っていたが素行の悪さのため、
     一刀斎は気性の激しい善鬼は後継者としては相応しくないと踏んだのであろう...
     1592年(1588年説も)秘伝と瓶割を典膳に授け、
     上総の小金ヶ原で後継者を賭けた真剣勝負にて善鬼は敗死
     
小野次郎右衛門忠常<おのじろうえもん ただつね>慶応十三〜寛文五年(1608 年〜1665年)
名前/ 小野忠常
流派/ 小野派一刀流(小野派二代目)
その他/ 小野忠明の実子
     剣術を父・忠明に学び、小野家正統が代々継ぐ「次郎右衛門」の名を継承
     父・忠明が大成した一刀流組太刀の指南法、稽古法に出刃・入刃・寄刃・開刃の4本を追加
     (六百石で将軍徳川家光に仕えたが心象は良くない)
     然し、小野派一刀流の型を完成させたのは忠常の子の忠於
 
古籐田勘解由左衛門俊直<ことうだかげゆざえもん としなお>(生歿年不詳)
名前/ 古籐田俊直、唯心
流派/ 古籐田一刀流(唯心一刀流/古籐田流)
その他/ 相模小田原北条家に仕え、新当流を修めた
     天正十二年に小田原を訪れていた伊藤一刀斎に試合を挑み敗れる、後入門
     以来修行に励み高弟の1人になり一刀流奥義に辿り、古籐田一刀流を創始した
 
古籐田仁右衛門俊重<ことうだにえもん とししげ>
名前/ 古籐田俊重
流派/ 唯心一刀流(2代目)
 
古籐田弥兵衛俊定 <ことうだやへい としさだ>
名前/ 古籐田俊定
流派/ 唯心一刀流
その他/ 二代藩主・美濃大垣戸田氏に父・俊重と同じく剣術指南役として仕え、二百石を知行
 
伊藤典膳忠也<いとうてんぜん ただなり>
名前/ 小野次郎右衛門忠也、伊藤忠也
流派/ 忠也派一刀流
所持刀/ 瓶割(後継)
その他/ 忠也は一説には小野忠明の子供(長男)とも、また弟とも云われている
     瓶割と共に伊藤姓を継ぐ
     この後一刀流は忠常の小野派と忠也の伊藤派に分かれる
 
溝口新五左衛門正勝<みぞぐちしんござえもん まさかつ>
名前/ 溝口正勝
流派/ 溝口派一刀流
 
梶新左衛門正直<かじしんざえもん まさなお>
名前/ 梶新左衛門
流派/ 梶派一刀流
その他/ 小野次郎右衛門忠常の門人
     渡辺善兵衛勝綱の実子で後に梶次郎兵衛正道の養子となる
     徳川家綱・綱吉に仕え、梶派一刀流は主に津軽藩に伝えられた
 
逸見若狭守義年<へんみわかさのかみ よしとし>(1747 年〜1828年)
名前/ 逸見義年、逸見太四郎義年
流派/ 甲源一刀流
道場/ 耀武館
その他/ 甲斐源氏の祖である新羅三郎義光の末裔
     秩父郡小沢口(秩父郡両神村小沢口)、孫四郎義満の長男として誕生
     「甲源」とは甲斐源氏からとったもの
     剣は桜井五郎長政から一刀流を学び、後に試行錯誤を繰り返し自流・甲源一刀流を創始
     道場「耀武館」を建てて門人の育成に励んだ
 
伊藤孫兵忠一<いとうまごべえ ちゅういち>
名前/ 伊藤忠一
流派/ 水戸派一刀流
 
中西忠太子定<なかにしちゅうた たねさだ>
名前/ 中西子定
流派/ 中西派一刀流(初代)
道場/ 下谷練塀小路東側に中西道場
門人/ 中西道場三羽烏(寺田宗有、白井亨、高柳又四郎) etc
 
中西忠蔵子武<なかにしちゅうぞう つぐたけ>
流派/ 中西派一刀流
その他/ 従来の刃引き稽古を取り止め、
     韜袍(とうほう)稽古(面小手を着用し竹刀を使った試合稽古)を導入した
 
浅利又七郎義信<あさりまたしちろう よしのぶ>
名前/ 浅利又七郎(初代)
流派/ 中西派一刀流
門人/ 千葉周作(養子) etc
 
浅利又七郎義明 <あさりまたしちろう よしあき>
名前/ 浅利又七郎(2代目)
流派/ 中西派一刀流
門人/ 山岡鉄舟 etc
 
寺田五右衛門宗有<てらだごえもん むねあり>(1745 年〜1825年)
名前/ 寺田宗有
流派/ 天真一刀流
その他/ 白井亨、高柳又四郎と共に中西道場三羽烏の一人
     中西道場にて子定に師事し、二代目子武の方針に異論を唱え離脱
     その後12年平常無敵流の池田成美につき修行する
     子武が代を降りると再度中西道場に戻り、四代目子正にも一刀流を教える
     組太刀稽古を得意としており、打ち込む隙を与えなかったそうである
 
白井亨義謙<しらいとおる よしのり>(1783 年〜1843年)
名前/ 白井亨
流派/ 天真白井流
その他/ 備前岡山藩士
     寺田宗有、高柳又四郎と共に中西道場三羽烏の一人
     8歳頃から依田新八郎秀復に機迅流を学び、7年の修行でも印可を与えられなかった為
     寛政九年一月に中西派一刀流・中西子定の門人となり同門・寺田宗有にも教えを乞うた
     師・中西子定の死を機会に武者修業の旅に出て、終了後岡山に道場を建てる
     他に藩の軍法師範・滝川万五郎俊章に兵学、白隠禅師に内観法を学ぶ
     その後寺田宗有から天真流の印可を受け天真一刀流二代目となる
     更に寺田の命に従い念仏道場に入り大悟して
     「明道論」「神妙録」「天真録」「兵法未知志留辺」等を執筆する
     やがて、白井は天真一刀流を津田明馨に継がせて自流・天真伝兵法ならぬ
     天真白井流を興じる
     
高柳又四郎<たかやなぎ またしろう> (1807 年〜? 年)
流派/ 中西派一刀流
その他/ 寺田宗有、白井亨と共に中西道場三羽烏の一人
     相手と自分の竹刀を触れさせる事無く相手を倒す事が出来、
     その為竹刀鳴る音が聞こえないので「音無しの剣」と呼ばれていた
     因みに「大菩薩峠」(著:中里介山)での机龍之介が使う「音無しの構え」のモデル
 
山岡鉄太郎高歩 <やまおかてつたろう たかゆき>(1836 年〜1888年)
名前/ 山岡鉄舟(てっしゅう)、山岡鉄太郎
流派/ 一刀正傳無刀流(開祖)
所持刀/ 瓶割(後継)
道場/ 赤坂離宮に春風館
その他/ 江戸生まれ、旗本小野朝右衛門の五男
     あらゆる面で優れており剣術の他に書道や絵画などを残す
     谷中の全生庵墓地に埋葬されている
 

巌流(がんりゅう)
特色:剣速に重を置く技術至上主義の剣術
 
佐々木小次郎巌流<ささきこじろう がんりゅう>(1595? 年〜1612年)
名前/ 佐々木小次郎
流派/ 巌流(開祖)
所持刀/ 物干し竿
その他/ 越前宇阪の庄、一乗谷浄教寺村の生まれ
     富田勢源の家人となって幼少より兵法の稽古に励み、遂には勢源の打太刀まで務めた
     又中条流の鐘巻自斎にも師事したと云われている
     彼は更に勝つ為の方法を研究し、やがて高弟達でさえ彼には及ばなくなった
     その為、勢源門を出て自流を巌流と称し諸国修行に励んだ
     豊前小倉では細川忠興に抱えられ兵法指南を務めるようになった
     その後同国に宮本武蔵が現れ、巌流島にて決闘をし敗死した
      小次郎が燕返しを編み出したのは有名だが、
     実際は巌流の一心一刀、虎切りなる剣技を駆使したのだと思われる
 

天心独名流(てんしんどくめいりゅう)
 
根来八九郎重明<ねごろはちくろう しげあき>(生歿年不詳)
名前/ 根来重明
流派/ 天心独名流(新流)
その他/ 一刀流・伊藤典膳の高弟
     二本松藩に仕えた後に、江戸にて同藩師範となり天心独名流を開く




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