陰流系 統

陰流(かげりゅう)
 
愛州移香斎久忠<あいすいこうさい ひさただ> (1452 年〜1538年)
名前/ 愛州移香斎、太郎(通称)、惟孝、日向守
流派/ 陰流・影流
門人/ 上泉信綱、愛州元香斎 etc
その他/ 別名・影ノ流とも云う
     伊勢国度会郡の生まれ
     先祖は南北朝の前期・南朝方に属した伊勢の国守であったそうだ
     彼は若い頃から関東・九州・明国など諸国を廻りながら修行をする
     その傍らざんばら髪、赤銅色の裸に日本刀を背負って海賊まで遣っていたという
     移香斎三十六歳の時、日向国鵜戸神宮に参篭しその岩屋で猿(蜘蛛)に変化をした神に
     一巻の書を与えられて、それを元として影流を創始した
     また子・愛州元香斎や剣聖・上泉信綱の師でも有名
 

猿飛陰流(さるとびかげりゅう)
 
愛州元香斎宗通<あいすげんこうさい>(1519 年〜?年)
名前/ 愛州小七郎宗通、美作守
流派/ 猿飛陰流
その他/ 愛州移香斎の息子 
     記録には父・愛州移香斎と共に剣術師範として、
     常陸久慈郡太田城の義重の元へと出仕したとある
     猿飛陰流の名の由来は、常州久慈郡真弓山にて祈ると
     前勝坊なる異人が猿を相手に奥義を啓示したのを見て開悟し、
     その事から流名を猿飛陰流へと革めた
 

新陰流(しんかげりゅう)
 
上泉伊勢守信綱<かみいずみいせのかみ のぶつな>(1508 年〜1577年)
名前/ 上泉秀綱、上泉信綱、武蔵守
流派/ 新陰流(開祖)
秘伝/ 無刀取り 
門人/ 柳生石州斎、丸目蔵人佐、疋田豊五郎、神後伊豆守宗治、宝蔵院胤栄
    奥山休賀斎公重(神影流)、上泉常陸介秀胤(ひでたね/上泉流軍法)、
    上泉主水正憲元(会津一刀流)、狭川甲斐守助貞(狭川新陰流)
    野中新蔵成常(新神陰一円流)、羽賀井一心斎(羽賀井流)
    松田織部之助清栄(松田派新陰流) etc
その他/ 伊藤一刀斎・塚原ト伝と共に剣聖とうたわれる人物の一人
     上野国上泉(現前橋市)に上州大胡の城主・憲綱の子として生まれる
     上泉の家系は代々上杉管領家に仕え上泉城を守っていたが、
     天文二十四年に北条氏に攻められ開城した
     初名は秀綱、後に武田信玄から「信」の字を貰い受け信綱と改名
     松本備前守に鹿島神流を、愛州移香斎(小七郎の説も)には陰流を他に念流を学び
     それ等を昇華して、自流・新陰流を称した。
     30〜60本の割竹を革の袋に入れて、竹刀の元となる「ひきはだしない」を発明
     又、剣術修行に段階制度を採り込み、上達につれ高度な技を教えていった
     逸話では僧に変装し剣を使わずして賊を召し捕るという信綱の人格を示す話も残っている

柳生新陰流(やぎゅうしんか げりゅう)
 
柳生石舟斉宗厳<やぎゅうせきしゅうさい むねよし>(1527 年〜1606年)
名前/ 柳生石舟斉
流派/ 柳生新陰流(開祖)
秘伝/ 無刀取り完成
門人/ 柳生宗矩(五男)、柳生利厳(孫)、木村助九郎、出淵平八、村田与三
    庄田喜左衛門(庄田心流) etc
その他/ 大和国柳生庄の生まれ
     父・家厳と供に三好長慶、松永久秀、一時期は織田信長に仕えたが病を理由に辞した
     その後剣の道を目指し一刀流・戸田一刀斎や新当流・神取新十郎に師を仰ぎ奥義に至る
     1563年宝蔵院にて新陰流・上泉信綱に試合を申し込むも、
     その弟子・疋田豊五郎と立合い軽くあしらわれ、信綱に教えを乞う為立ち合ってみたが
     続けざまに打ち込まれ、感銘を受けた宗厳は即刻入門を願い出た
     懸命に稽古に励んだ宗厳は2年後印可を、6年後には「一国一人の印可」を授かった
     1593年剃髪して入道石舟斎となって自流・柳生新陰流を興じた
     ある時石舟斉の無刀取りを耳にした将軍・徳川家康に招待され無刀取りを披露
     奥山休賀斎の元で鍛錬をした家康自身が相手役を勤め、石舟斉は見事に木刀を奪い取る
     家康はその技に驚き、その場で入門の誓紙を書き師範を命じたので、
     石舟斉は子・宗矩を師範役へと推薦する
     こうして徳川家と柳生家との縁が始まったのである
 
柳生但馬守宗矩<やぎゅうたじまのかみ むねのり>(1571 年〜1614年)
名前/ 柳生宗矩
流派/ 柳生新陰流
門人/ 柳生十兵衛(長男) etc
その他/ 優れた剣客ではあるがそれ以上に政治家として有名
     大和国柳生庄で柳生石舟斎宗厳の五男として誕生    
     文禄3年・24歳以降、徳川家康の元で師範として仕える
     慶長5年・家康は留守中石田光成が挙兵した時に備え
     指導性優れる柳生一族を見込んで後方牽制戦を命じたのである
     宗矩は家康と石舟斉の連絡役を務め、結果その功績から二千石を与えられ
     先祖からの地・柳生庄を手に入れる
     翌年には2代将軍・徳川秀忠の剣術師範となり更に千石授与され、
     寛永6年・但馬守に叙任される
     寛永9年には三千石加増されて、その政治手腕を認められ惣目付役に就任
     寛永13年では更に四千石が加わり、最終的には一万二千五百石を手に入れた
     また大阪夏の陣では大阪方数十人の秀忠本陣への強襲に際し、
     相手7人を斬り見事秀忠の命を守った
 
柳生兵庫助利厳<やぎゅうひょうごのすけ としよし>(1579 年〜1650年)
名前/ 柳生利厳、如雲斎
流派/ 柳生新陰流
所持刀/ 出雲永則銘(大太刀/刃長四尺七寸八分)
その他/ 大和国柳生庄で柳生厳勝の子として誕生。尾張柳生の祖
     父・厳勝は初陣の際受けた銃創の為早くも柳生に隠居する
     幼少より祖父・石舟斉から目をかけられ、それに答えるべく鍛錬に励んだ
     後に加藤清正の客分として仕え、五百石の高禄を得る
     28歳の時、死を目前とした石舟斉より「一国一人の印可」と「出雲永則銘」を授かる
     だが、ある時口論により人を斬り浪人と成ってしまう
     福島正則からも誘いは受けたが、清正への恩義の為「3年は何処にも仕えぬ」と断る
     その間諸国を廻り、9年経つと尾張藩・徳川義直の剣術指南として五百石を授かる
     また利厳は廻国中に、穴沢流棒術を阿多棒庵に、小笠原軍法を疋田豊五郎に学び
     新当流の槍術さえも極めていたと云う
     
荒木又右衛門保和<あらきまたえもん やすとも>(1598? 年〜1643?年)
名前/ 荒木又右衛門
流派/ 柳生新陰流、柳生心眼流体術(流祖)
その他/ 三大仇討ちの一つである、鍵屋の辻の決闘で有名
     鍵屋の辻では36人斬りした事になっているが、
     実際は桜井半兵衛と河合甚左衛門の両名しか斬っていない
 
柳生十兵衛三厳<やぎゅうじゅうべえ みつよし>(1607 年〜1650年)
名前/ 柳生十兵衛
流派/ 柳生新陰流、柳生心眼流(法祖)
所持刀/ 三池典太
その他/ 柳生宗矩の長男
 
柳生左門友矩<やぎゅうさもん とものり>(1612 年〜1639年)
名前/ 柳生友矩
流派/ 柳生新陰流
その他/ 柳生宗矩の次男
     友矩は容姿端麗で、剣術も兄の三厳に劣らずと云われており
     小姓としても三代将軍・徳川家光の寵愛も受けていたが、
     1639年(寛永16年)柳生にて病死する
 
柳生飛騨守宗冬<やぎゅうひだのかみ むねふゆ>(1613 年〜1675年)
名前/ 柳生飛騨守
流派/ 柳生新陰流、新陰流兵法
その他/ 柳生宗矩の三男
     また昭和2年に彼の墓から上下顎総義歯が発見されており
     歯科医学界からも注目を集めている
 
柳生連也厳包 <やぎゅうれんやよしかね> (1625 年〜1694年)
名前/ 柳生連也
流派/ 柳生新陰流
門人/ 猪谷渋右衛門 etc
その他/ 尾張柳生「心の兵法」の完成者であると云える人物
     徳川家光の御前試合(組太刀稽古?)で宗冬の親指を砕いた事は有名である
 
竹永隼人直入<たけながはやと なおいり>(生歿年不詳)
流派/ 柳生心眼流(流祖)
その他/ 仙台藩にて剣術指南を勤めるが、自身の未熟さを知り柳生家に奉公する
     その後柳生宗矩に認められ極意を得て、伊達正宗の名により柳生心眼流を開く
 

神後流(じんごりゅう)

 
神後伊豆守宗治<じんごいずのかみ むねはる>(生歿年不詳)
流派/ 神後流
その他/ 上泉信綱の愛弟子

 
宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅうそうじゅつ)
 
宝蔵院覚禅房法印胤栄<ほうぞういんかくぜんぼうほういんいんえい> (1521 年〜1607年)
名前/ 宝蔵院胤栄
流派/ 宝蔵院流槍術(開祖)
その他/ 奈良宝蔵院は興福寺の塔頭で塔頭は大寺中にある寺院の事
     院主であった胤栄は武芸を好み、様々な武芸を修得し
     特に秀でていた槍術を昇華させていった(自身で工夫した鎌槍などを用いた)
     永禄六年に上泉信綱が奈良宝蔵院を訪問の際、新陰流を学ぶ
     因みに宝蔵院流槍術は中村政尚に正統が継承され、次に高田又兵衛門吉次に伝えられた
     そして、その高弟である森平政綱ら三名が江戸にてこの槍術を普及させた
     明治・大正には皇居内済寧館に出仕した山里忠篤から第1高等学校撃剣部に伝習され、
     石田和外が伝承した。現在は石田氏の死後、奈良の西川源内に継承されている
 

神影流(しんかげりゅう)

 
奥山休賀斎公重<おくやまきゅうがさい きみしげ>(1525 年〜1602年)
名前/ 奥平、急加斎
流派/ 神影流(奥山流とも・開祖)
門人/ 小笠原玄信斎長治 etc
その他/ 新陰流を上泉信綱に学び
     1564年三河奥山明神にて祈願した所、神託に置いて奥義を授かったと云う
     その後自流・神陰流(奥山流)を開いた
     又、将軍徳川家康に7年間剣術指南を務めた

 
疋田陰流(ひきたかげりゅう)
 
疋田豊五郎景兼<ひきたぶんごろう かげかね>(1527 年〜1605年)
名前/ 疋田豊五郎、小伯(虎伯とも)、栖雲斎(せいうんさい)
流派/ 疋田陰流
その他/ 上泉信綱の愛弟子、甥でも有ると云う説も残る。剣術と共に槍術に秀でていた
     当時評判であった柳生宗厳と三度立ち会い、全て勝利したと云われている
     また田辺城主・細川幽斎に仕え、豊臣秀次に槍術指南をしたとも云われている
     豊前中津に移封された細川家に仕え、修行をまとめた廻遊記を細川幽斎に奉じる
 

タイ捨流(たいしゃりゅう)
特色:代表する太刀が体を斜めに構えて敵を斜めに切る事から名付けられたという
    相手に攻められた時にこそ力を発揮すべしとする「後の先」をとる剣法
    薩摩の示現流に影響を与える
 
丸目蔵人佐長恵<まるめくらんどのすけ  ながよし>(1540 年〜1629年)
名前/ 丸目蔵人佐、丸目見守入道徹斉蔵人佐藤原長恵
流派/ タイ捨流(開祖)
門人/ 東権右衛門正直、頴娃主水、仁礼佐渡守、藤井六郎太続長 etc
その他/ 肥後八代郡人吉(熊本県人吉市)に生まれる
     幼少より三人の弟等と立木を利用して打ち込みの鍛錬を行った
     16の歳で大畑合戦にて初陣を飾り、のち天草本渡城に寄寓する
     剣は中条流を学び、上京の際に上泉信綱に試合を申し込み返り討ちにされる
     感銘を受けた彼は上泉に即刻師事し、厳しい稽古の後に遂には
     将軍・足利義輝の御前で上泉が剣技を披露する際の打太刀を務めた
     帰郷後は藩主・相良義陽の元に付き、その一方で剣術の上達にも勤しんだ
     28歳の時には遂に上泉から印可を与えられる
     その後相良氏と島津氏の戦に参戦するが、相手の策にはまってしまい
     敗戦の原因を作ったとして出仕を差し止められてしまう
     上泉の死後、悲観に暮れるも祖国に自流を立て相良長毎の代になると出仕を許可され
     剣術指南役として採り立てられた。(後に「東の柳生、西のタイ捨」と云われる)
     因みに墓石は一武村切原野字堂山に葬られている
 

直新陰流(じきしんかげりゅう)

 
小笠原玄信斎長治<おがさわらげんしんさい ながはる >(1570 年〜?年)
名前/ 小笠原玄信斎
流派/ 直新陰流(開祖)
門人/ 神谷伝心斎 etc
その他/ 遠江高天神城主・小笠原長忠の弟
     高天神城落城後は小田原北条氏の庇護下であったが、
     北条氏が滅亡すると玄信斎は諸国修行の旅に出た
     新陰流・上泉信綱や奥山休賀斎に師事し、のちに真新陰流を開いた
 

直心流(ちょくしんりゅう)

特色:竹刀稽古の一撃一撃を真剣だとみなして修行する
    当時としては珍しく、他流試合も積極的に取り入れている
    稽古では主に竹刀を用いるが、他流試合には木刀を使用すると云う
 
神谷文左衛門尉伝心斎<かみやぶんざえもんい でんしんさい>(生歿年不詳)
名前/ 神谷伝心斎、神谷伝心斎正光
流派/ 直心流(開祖)
その他/ 直新陰流を小笠原玄信斎から学び、その刀法も継ぐ
     67歳頃に儒学・一派宋学の理論と組み合わせて流名を直心流と改めた
 

直心正当流(ちょくしんせいとうりゅう)
 
高橋弾正左衛門重治<たかはしだんじょうざえもん しげはる>(生歿年不詳)
流派/ 直心正当流(流祖)

 
浅山一伝流(あさやまいちでんりゅう)
特色:新陰流から派生した流派で、棒・短棒術も含まれている
 
浅山一伝斎重晨<あさやまいちでんさい しげとし>(生歿年不詳)
名前/ 浅山一伝斎
流派/ 浅山一伝流(開祖)
 

小栗流(おぐりりゅう)
特色:剣術・柔・組打・槍術・居合・薙刀・水馬
     水泳・騎射・棒術・縄・小太刀などを教える古流総合武術
 
小栗仁右衛門正信<おぐりじんえもん まさのぶ>(? 年〜1661 年)
名前/ 小栗仁右衛門
流派/ 小栗流(流祖)
その他/ 仁右衛門は徳川家康、秀忠に仕えた家臣で、
     剣術を柳生宗矩門下の出淵平兵衛盛次に学び
     後に柳生流門下・駿河鷲乃助と共に研究を重ねて和術を編み出した。
     剣術・槍術・抜刀術・薙刀・水馬・水泳・騎射にその和術を加えて
     表裏72型を持ち、柳生家の認可を受けて元和二年(1616年)に小栗流を立てた
     また、幕末の志士・坂本龍馬も当流を日根野弁治門下で習得している。
 

猪谷流(いのたにりゅう)
 
猪谷渋右衛門和時<いのたにしぶえもん かずとき>(生歿年不詳)
名前/ 猪谷渋右衛門
流派/ 猪谷流(開祖)
その他/ 柳生連也の門人
     猪谷流の流名を名乗ったのは子・只四郎和充からであり、     
     只四郎は服部彦助玄忠に制剛流も学んでいる事から                      
     以後、猪谷流は柳生流・円明流・制剛流を独自に組み合わせた流儀といえる
 

無住心剣夕雲流(むじゅうしんけんせきうんりゅう)
特色:「相抜け」と云う、剣術を極めた者同士が
    共に相手を認め合い争わずに引き分けとする事を奥義とする
 
針ケ谷五郎右衛門夕雲<はりがやごろうえもんせきうん>(生歿年不詳)
名前/ 針ケ谷夕雲
流派/ 無住心剣術(夕雲流、破想流・開祖)
門人/ 小田切一雲 etc
その他/ 直新陰流を小笠原玄信斎に学ぶ
     その後本郷駒込竜光寺の虚白和尚に参禅すると
     直新陰流とは全く異なった剣術を編み出した
     天真白井流・白井亨曰く一番強い剣客は針ケ谷夕雲であるそうだ

真理谷円四郎<まりや えんしろう>
名前/ 真理谷円四郎
流派 /無住心剣術3代目
その他/江戸中期、門弟を1万人従えながらも日の目をあびず


空鈍流(くうどんりゅう)
 
小田切一雲空鈍<おだぎりいちうん くうどん>(生歿年不詳)
名前/ 長谷川如庵、小田切一雲、片桐空鈍
流派/ 空鈍流(流祖)
その他/ 元は長谷川如庵の名で学者を生業にしていた
     無住心剣流を針谷夕雲から学び、三十四歳の時には印可を取得する
     無住心剣流正当四代目を門下である真里谷円四郎義旭(真里谷流)が継いだが、
     戸川玄蕃・兵橋助六・河野左門らがそれに反対した為、空鈍流を称する事になる
 

雲弘流(うんこうりゅう)

 
井鳥允之助巨雲<いとりみつのすけ きょうん>(生歿年不詳)
名前/ 井鳥巨雲、井鳥充之助要之
流派/ 雲弘流(流祖)
その他/ 弘流(天真正伝神道流から派生)を樋口元雲から学び、
     後に小田切空鈍の無住心剣夕雲流を参項とし雲弘流を開く



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