Martial Arts
 

合気道 (AIKIDO)

19世紀、合気道は柔道とほぼ同時期に柔術を発展させて生まれた武道である

柔道の親戚とも言えるが、その技術体系・理念は剣道に近い

合気道には試合が無く演武のみなので実戦性が乏しいと思われがちだが、

警察が凶悪犯を捕縛する手段としてその技術が採用&実際に使用されている事から

その実戦性の高さが覗える。一般では合気道は護身術としても認可されています

又、合気道は純粋武道なので勝負に拘ったり、敗北感、劣等感、慢心等に襲われる事が無く

澄んだ気持ちで技術の上達を図る事が出来る。その為合気道 は「和の武道」と云われている。


武田惣角は合気道の母体である大東流合気柔術(元は江戸時代から続く会津藩「御留技」武術)

の宗家だが、彼が追及した柔術は他流派と異なり「気」を磨き上げ、

それを駆使し一瞬で相手を制する技術を身につける事を目的としていた。

その武田惣角の弟子の1人・植芝盛平が1920年に「植芝塾」を創設し

合気道の原型(合気武術)を作り上げた。彼は合気道の普及に努め遂には財団法人を発足させ、

1948年には名称を「合気道」に改め文部省からの認可を得た。

円運動で敵の動きを崩し、その背後から倒すのが合気道の基本技法であり

その動きは実にダイナミックで合理的である。

合気道には「合気」と呼ばれる技法があり、それは筋力とは全く別のモノなので

体格の小さな人でも大きな人間を制する事が可能。

だがその修得は一朝一夕には身に付かず、長年の修行の末に修得が可能になる


・日本合気道協会(にほんあいきどうきょうかい)

日本合気道協会は1974年に富木謙治によって創設された流派である

富木は合気道創始者・植芝盛平の一番弟子として合気道を体得。

又、早稲田大学時代は柔道部に在籍しており講道館の指導員をも任される実力者であったと云う

そして柔道創始者・嘉納治五郎が柔術の競技化を成功させた様に

自らも合気道の競技化を模索し始めた。

試行錯誤の末彼は「活きた武道」としての技術向上を望み、

柔道の稽古の一つである乱取り稽古を参考にして合気道にも乱取りを取りいれた

現在、日本合気道協会は合気道界においては数少ない乱取り競技を行う流派である


・養神館(ようしんかん

合気道養神館は1955年に塩田剛三によって新宿区筑土八幡に創設された

塩田氏は身長145cm/体重54kgと非常に小柄な人であったが、

大の男が何人で襲い掛かっても、皆弾き飛ばされたと云われている

合気道界「屈指の達人」と呼ばれるだけありその技術は神業とも云えるものであったのだ

塩田氏は1994年に逝去されたが、その存在は合気道に大きな影響を及ぼしている


合気道が一躍脚光を浴びる事となったのは、昭和29年7月・ライフ・エクステンション(長寿会)主催

「日本総合武道大会」にて塩田氏の演武が非常な好評を博し最優秀賞を受賞した事であろう

大会1年後には財界の人々が塩田先生を擁し「合気道養神会」を結成、養神館道場が設立した

現在は新宿区上落合に道場の拠点を置き、

平成2年には全日本養神館合気道連盟(現会長・寺田精之)、

国際養神会合気道連盟(現会長・小野清子)を設立、国内は勿論の事欧米諸国に至るまで、

広く養神館合気道の普及活動を続けている

昭和37年にロバート・ケネディー夫妻、昭和40年には常陸宮夫妻、アレクサンドラ王女が来館し、

昭和62年には現在の皇太子殿下が道場を訪れ、演武を観覧し館長・塩田氏とも歓談している

その他、マイクタイソン等の内外各界の多くの著名人が道場を訪れて演武を拝見している

又、養神館の合気道は警察の逮捕術としても活用されている


・合気道SA

元養神館師範である櫻井文夫が合気武道・合気護身・合気組手を体系づけて設立した流派

他の格闘技とも盛んに交流し、日本のプロシューティングに選手を送り出したりもしています。


・氣の研究会(心身統一合気道)

合気会内で中心的な指導者であった藤平光一が1974年に独立して設立した流派

合気道の中では密かに評価が高く、信奉者も多いと云われている

別名を「心身統一合気道」と称し国内以外にも、海外10数カ国に普及している


・合気道瑞峰館(あいきどうずいほうかん)

この道場では大東流合気柔術・養神館・合気会の技術を一緒に学ぶ事が出来る

師範もその流派ごとで名を知られている有名な人達で、

現に出身者には柔道国体選手や大学体育会空手部、極真会館出身者など多彩


ハッキドウ(ハップキ ドウ)

漢字で「合気道」と記す韓国の武術

この武術の源流は大東流合気柔術だと言われ、

戦前日本に住んでいた韓国人・チョイが武田惣角より習ったモノだと云われている

チョイ氏は終戦後韓国に戻り「Yu Kwon Sul」なる名称で大東流の技術を伝え、

これを弟子達が発展させてハッキドウとなった。又、彼は旭川での武田氏の講習会に参加しており

植芝盛平の事を「先輩」と呼んで一緒に稽古をしたそうだ

その後も植芝氏との関係は若干であるが継続され、

ハッキドウは大東流だけで無く合気道の影響も受け継いでいる

ただチョイ氏が大東流をどの程度まで学んだのかは定かでは無く、

少なくとも弟子たちには「合気」の技術も理念も伝わっていないようで、

20年ほど前に開かれた演武会の際は「腕力で合気道の技をかけている」との印象があったらしい

現在では関節技や柔道を含む投げ技、テコンドーの突き・蹴りを融合した流派が主流となっている

また、映画「死亡遊戯」(又はGOD)に出演した地漢載(チ・ハンサイ)はハッキドウ金段(最高位)である

彼は1936 年韓国に生まれ、長きに渡り朴大統領の師範&警備隊員を務めていた


アメ リカンカラテ

北朝鮮のテコンドーが原型でキックボクシングや空手等からも影響を受けている米国格闘技

キックボクシング同様に手にグローブを着用して戦う

又、アメリカンカラテのプロ版がプロ空手(マーシャルアーツ)である


圓和道(ウォナド/WON HWA DO)

圓和道(ウォナド)は韓国武術で「圓(円)の和によって、道としてなそうとする」の理念を主としている

「圓(球)」とは角が無く調和のとれた姿を指し、

「圓和」とは「角が取れて(互いに)丸く(等しく)交わり相生する」事を意味しており

これに規範と秩序及び相生の原理を表わす「道」を付けて「圓和道」となっている

森羅万象は極小から極大に至る全ての存在が、円形・球形 (螺旋形も)を成して調和している。

これは宇宙や森羅万象の根源の形でもあり、人々の心の有り様にも応用する事が出来る

そしてこの心から生まれる動きが「円の動き」となっているのだ

「円の動き」は「ピソン」によって象徴されている

「ピソン」とは両手を胸の前で円を描くように擦り合わせながら天に祈願する動作で、

韓民族の伝統的な動作であるそうだ

このピソンに「三ム」の内容があり、圓和道の根本となっています。

つまり圓和道とは「ピソンを基本として表現される三ムの道」と表現出来る


「タスリギ」は氣手により心と肉体の調和を成す事を意味する

均衡を失った身体の一部に手を当て、軽く円を描きながら摩擦する

その部位を心の目で凝視し心の力を送り、真心・生命を愛する心で行なう事が重要である

氣手で打つ(チギ)事でタスリギと同様の効果を得る方法を 「タスリョチギ」 と云う

「三ム」は「巫、舞、武」(いずれも韓国語でムと発音)であって、

「三ムの道」には「第1の巫道、第2の舞道、第3の武道」がある。

第1 の巫道とは「天を知る道=根本に対する概念」の意味

第2 の舞道とは「人を知る道=共同体的概念」の意味

第3 の武道とは「地を知る道=規範的概念」の意味が有る

圓和道における「武道」とは攻防の技術に留まらず、

成すべき事と成さざるべき事に対する規範と切除を指す

「三ムの道」とは「巫道、舞道、武道」各々が別にあるのではなく、

踊りや攻防の中で、或いは生活の中で一つとなって現れるものである

それによって人々は明るい生き方・健全な生き方・そして共に生きる共同体作りを追求する。


ヴォ ザン・トク

ベトナムの手技を多用する打撃格闘技

カラ クジャク

別名・オイルレスリングとも呼ばれるトルコの格闘技

膝までの皮製のズボンを着用し、裸足で歌を唄いながら互いに手でヒツジ油を付け合う

互いにヌルヌルした体だから掴む方法が無い為、必然的にクラッチ(手と手を組む)が主となる

闘いは屋外で行われ、深さ2m広さ4畳半ほどの穴が試合場とされている

勝敗は一方の背がついたら終わり。だが、技術が単純な為に試合時間が長引く事もあり、

レスラーは驚異的なスタミナを必要とされる

(因みにカラクジャクがプロ化したものがヤールグレッシュである)


空手 (KARATE)

中国から伝わった拳法が起源の徒手空拳を駆使しての打撃系武道・格闘技。

沖縄で完成されたが、競技化される以前は投げ技や関節技があったらしい

空手の原型となる武術は現在の福建省で生まれた白鶴拳だと云われている。

その中国拳法が沖縄に伝わったが、元々沖縄には「手」と呼ばれる独自の武術があり、

それが発展して空手になったという説もある。

江戸徳川時代、沖縄(琉球)は島津藩の支配下にあったが、民衆は武器を全て没収され、

役人と戦う術さえ奪われていた。そんな民衆の間に広まっていったのが

素手素足の格闘術「手(テイ)」で、農機具を利用した武器術(ヌンチャク、トンファー)も生まれた。

その後中国を表す「唐」が頭に付いて「唐手(トウデイ)」となり、

これが「カラテ」と読みを変え「空手」となったと云われている。

当時の空手は流派概念が無く、地域で多少の技術的差があった。それ等は大きく3つで、

モーションが大きく直線的で攻撃力が強い首里手(シュリテ)、

曲線的でコンパクトな動きの那覇手(ナハテ)、その中間の泊手(トマリテ)が存在した

その後、それ等は本土へと伝わり船越義珍の伝えた首里手は松涛館流へ、

それ以外の首里手は少林流や錬武会流へとなり、宮崎長順の伝えた那覇手は剛柔流に、

大塚博紀の伝えた那覇手は和道流に、糸州安恒氏の伝えた泊手は糸東流へと各々発展していった


現在でこそ空手と云えば組手というイメージがあるが、

空手には本来試合概念が無かった為稽古は型に終始していた。

戦後、柔道や剣道といった日本武道が競技化を目指し改善していたのに対し、

空手が競技化を模索し始めたのはずっと後の事であった。

そして試行錯誤の末制定されたのが、相手に当てず体の寸前で止める「寸止め」ルールであった

これは「空手は一撃必殺が故、当てる事は死を意味する」という神話から考え出されたルールである

だが、琉球空手の流れを汲む伝統派空手の対極として生まれた極真カラテが制定した、

「素手による直接打撃を認める、ただし顔面殴打は禁止」とするそのルールは、

空手界に多大な衝撃を与える事となった。

以後、多くの直接打撃系(フルコンタクト)・ノックダウンルールを採用した流派が発生

以上の様に空手が本土に伝わった以後多くの流派が生まれている。

これは、空手界が統一の組織を持たなかった事が最大の原因と言われており

現在でも流派の増加は進み、その数は500を越えるといわれている

その為道場や流派により、かなり個性的な特色を持っている。


・芦原会館(あしはらかいかん)

新国際空手道連盟 芦原会館は昭和55年9月に「ケンカ十段」芦原英幸により創設された団体

芦原氏の創始した技術体系は「サバキ(SABAKI)」と呼ばれ空手界に技術革命を起こした。

その技術水準の高さから世界各国から注目が集まっている

道場生には、後に独立して円心会館を興す愛弟子・二宮城光や

正道会館を興す石井和義館長、天才児・中山猛夫、伊藤浩久、山内文孝がいた

その時には既に、現在のサバキと呼ばれる芦原英幸流の

空手スタイルの基礎はほぼ確立していたと云われている。


芦原英幸氏は昭和19年12月広島県佐伯郡能美町に生まれた。

その後就職のため上京し、昭和36年9月に大山道場へと入門する

昭和39年3月には初段を取得。それ等を評価され昭和41年1月に極真会館本部職員となる。

だが、同年12月にある事件をキッカケに極真会館を無期禁足処分となる。

その後、反省のため頭を丸め廃品回収業を始め、努力を認められ破門を解除された

昭和42年3月には大山館長の命により四国へ支部作りに単身で向かう。

四国では、すし屋の住み込みで働くかたわら空手の稽古の出来る場所を捜す。

そんな時一つの事件をもとに芦原氏の道場破りが始まった。そんな中徐々に弟子を増やした彼は

遂には念願の「八幡浜道場」を昭和45年6月に完成させる     

昭和54年1月18日には、松山本部道場オープン

しかし、昭和55年9月に様々な理由もあって極真会館を永久除名処分となる。

そして、独自の空手理論を確立すべく新国際空手道連盟芦原会館を設立。

以後、本・ビデオ等を発売し芦原空手の「サバキ」技術が注目される事となった

そんな折、平成4年8月左手に異常を感じ、11月に精密検査を受ける事に...

平成5年1月、病名「ALS」という難病と診断され、

平成7年4月24日午前2時48分、芦原英幸永眠(享年50歳)


・上地流空手(うえちりゅうからて)

上地完文(うえちかんぶん/1877〜1948年)を開祖と仰ぐ空手道の流派

源流は中国福建省福州市在の南派少林拳である。

上地完文は1897年(明治30年)より13年間にわたって周子和に師事し、免許皆伝となり

帰朝後、1926(大正15年)和歌山市に道場を開設するが、

1932年(昭和7年)に道場名を「パンガイヌーン流空手術研究所」とし伝授を本格化する。

1940年、流派名を(上地流)と改める。以後、特に戦後、上地流は実践的な武道としての

声価をとみに高めるが、技法上の体系は中国伝来の「三戦」「十三」「三十六」等の3つの型を軸とし、

戦後編み出された5つの型に、組手を加えて完成された。

中国の軌道権威筋は上地流の拳質を「龍虎鶴の拳」と鑑定するが、

技法上の特性はこの3種の動物の攻防の原理を体系化したというところにある。

教習体系では、技理不偏を要締とし理善業後(型→組手)の原理を強調する。

即ち型の演練を中心にし、その応用技としての組み手が補強的に錬成される仕組みになっている。

その課程で修行者の志向するものは心技体合一の境地であることは論をまつまでもない。

上地流の道統を思想づけるのは「八常の徳」

「礼儀・信義・廉潔・質素・公正・寛大・剛・不屈の意志力」であるが、

技法的には「眼精手りゅう」が流提である。 


・英武館空手(えいぶかんからて)

国際英武館空手道 英武館

芦原流サバキ最後の伝承者といわれる松本英樹によって創設された流派

空手家・芦原氏が、その技術の難しさ故に門外不出としてきた部分を

画期的な技術体系の構築によって、より段階的に学べる工夫を加えてきた。

芦原氏が軍隊や警察対応用に作った武器術のサバキもその技術指導の中に含まれ、

より実戦性の高いサバキ技術を追求している。ワールド・クラスの空手と呼ばれ

国際レベルで注目を浴びている。

指導者のライセンス制度など、従来の武道組織に無い新しい試みを見られる。

余談だが、芦原氏のケンカに最も付き合わされたのが他ならぬ松本氏であったと云う

後年に置いては松本氏自身が芦原氏の代理としてケンカを任される事も多かったそうだ


・円心会館(えんしんかいかん)                             

国際空手道 円心会館

アメリカ最大のカラテトーナメントとして有名なサバキチャレンジに代表される様に

サバキの技術の追求に主眼をおいて活躍している団体。

創始者・二宮城光は、極真会館の「第10回全日本大会」において優勝を飾っており

長年に渡り芦原英幸氏の主催する芦原会館のアメリカ総責任者としての重責を全うした。

基本的には、自分の師であった芦原氏のサバキテクニックを元にして、

自分の実戦で培った技術を加える事により

1988年6月コロラド州デンバーにて円心空手を創始した。


・巍桜流拳法(ぎおうりゅうけんぽう)

紳士の武道を目指し、安全面を考慮した上での実践的な拳法

二代目宗家・原田秀康(はらだひでやす)は日本各地の他、アメリカ・ドイツ等で指導をする傍ら

国際足健康法協会を設立し足医術での健康法の普及に努めている

因みに米国アリゾナ支部長・ジェラッド=ハドソン氏はUSオープン空手道選手権

フルコンタクト部門重量級で見事準優勝を勝ち取っている。


・逆真会館(ぎゃくしんかいかん)

創始者は極真会館全日本大会初代王者の山崎照朝(やまざきてるとも)

彼の上段回し蹴りは「華麗なる空手」として一世を風靡。

キックボクシングのリングにも上がり、沢村忠の連勝を止めたタイのカンナンパイにKO勝ちする等

伝説的な名勝負でも有名である。

現在では逆真会館を設立し、館長として後進の指導を務めている。

逆真空手の特徴は、自らが中心となり手足は円の動きを行う事によって

相手の攻撃をことごとく受け流す事にある。

それは正に、大山総裁が唱えた通り「点を中心にして円を描く」ものであると云える。


・極真会館(きょくしんかいかん)

国際空手道連盟 極真会館(昭和39年6月発足)

ゴッドハンドの異名を持つ空手家・大山倍達総裁が創設した国内初のフルコンタクト空手

その過激さから「邪道カラテ」「ケンカ空手」と呼ばれたが、

その技術は常に世界から注目されており4年に1度極真空手世界大会を開催している。

大山総裁は1923年に生まれ、9歳から拳法を学び中学2年で初段となる。

1947年、戦後初の全日本空手道選手権に出場し見事優勝。

生涯を空手に捧げることを決意し、山ごもり修行に入る

1950年には千葉県館山で牛と対決、牛を倒すこと47頭。

その後、アメリカやメキシコでも牛と対決し「牛殺しの空手家」として世界にその名を轟かせた。

1952年に日本空手の代表として渡米。

ウイスキー瓶を手刀で切る技は、神の手(ゴッドハンド)と称賛された。

1956年には東京池袋に大山道場開設。これが後の極真会の母体となる

その2年後に「Whats is Karate?」を出版。海外で大ベストセラーとなった

1964年現在の「国際空手道連盟極真会館」を正式に発足。

1969年、空手の生命は実戦にあるという信念に基づき、

実際に相手にあててダウンをさせた場合にはじめて1本とするルールで、

第1 回オープントーナメント全日本空手道大会を開催。今日のフルコンタクト空手の原点となった

1971年、少年マガジンに「空手バカ一代」連載開始。

この間に海外歴訪及び指導多数。現在では世界中に公認支部道場多数を持つ

そして、1994年4月26日大山倍達総裁永眠。

また、極真空手では稽古時も試合も直接打撃制を採用しており

顔面殴打・金的・頭突き・組技・寝技以外は全てが有効とされている。

1969年には画期的なルールを生み出しオープントーナメントを開催

それは「一撃必殺」である空手界においてタブーとされていた直接打撃・ノックダウンルールであった


・硬式空手(こうしきからて)

少林寺流を修めた空手家・久高正之が創始

「スーパーセーフ」という画期的な防具を着用して戦う空手である。


・剛柔会(ごうじゅうかい)

宮城長順の弟子・山口剛玄によって改良創設された空手団体

東恩納寛量から那覇手を学んだ宮城長順は単身中国へ渡り拳法の修行に励んだ

その後、沖縄に戻った宮城氏は那覇手と中国拳法を複合して新しい武道を体系立てた

それが「剛柔流」の原型である。また流派名を名乗ったのは剛柔流が最初だと云われている。 

そもそも、剛柔流の母体となった那覇手は中国拳法の影響を色濃く残すタイプであったのだ。

中国南部には水源が多く、地理的な制約から人々は船を使うことを余儀なくされた

その為、中国南部に伝わる拳法は技術的に狭い船上での接近戦を想定したものが主流であった

これらの特性は剛柔流にも見られ、組手技術にも中国拳法同様接近戦を前提にした技が豊富

宮城氏によって生み出された剛柔流は、弟子の山口剛玄氏により更なる改良が加えられた

昭和17 年9月28日には、会祖山口剛玄の三男で最高師範・山口剛史(本名:山口紘史/八段範士)

が満州・新京に誕生する。

そして1950 年(昭和25年)浅草千束道場開設と同時に「全日本空手道剛柔会」が創設され、

1965年には「国際空手道剛柔会」が発足した。

剛史氏は昭和26年に浅草千束道場にて正式に空手道の修行を開始後、

昭和32 年初段、34年二段、37年三段・指導員に見事合格する。

在学中にはアメリカ支部にて1年間空手道指導を行う。

復学後も剛柔会の各支部道場で指導にあたり、

昭和44 年卒業後は本部道場の専任師範として剛柔流空手道の普及発展に努めた

また、剛柔会、全空連、都空連の公認指導者、

および国際審判員としても世界40カ国以上を歴訪、指導にあたっている。

平成元年には会祖山口剛玄の逝去に伴い、平成2年に全日本空手道剛柔会会長に就任。

併せて国際空手道剛柔会会長に就任すると共に、両会の最高師範となり現在に至る。


剛柔会は那覇手にその源を置き、那覇手の大家・東恩納寛量を師とする、

宮城長順により確立されるのである。

16歳で中国に渡った宮城長順は中国拳法の多くの達人から、荒稽古を受けると共に

古い文献で理論も研究し、独特の呼吸法、気息の呑吐を完成させたのである。

剛柔流の名前は中国の古文献、「武備志」の拳の八句、「法呑吐剛柔」の一句で、

「法は剛柔を呑吐する」の意味から、”剛柔流”と名付けられた。

宮城長順は、それまでの鍛錬一途なやり方を改良し

予備運動・基本動作・基本型・開手型・整理運動・補助運動等、体育面からみても合理的な、

空手練習体系を確立させ、修業による人格形成を重んじ拳禅一致なる精神的な教示も残した。

昭和12 年、大日本武徳会から空手道教士号を授与されるに至り、

空手道は日本武道界から高い評価を受け、国内外普及への大きな足掛かりを印したのであった。

「法呑吐剛柔」とは、一切の存在、事象は全て「剛」と「柔」からなり、

剛は陽、柔は陰となって万物を構成し闘争における剛は攻めとなり柔は守りとしてその安全を計る。

剛柔の一体化は闘争を避ける無我の心境へと導かれるのである。


剛柔流の特徴は、中国大陸の「南舟北馬」の南舟と言われる地域的特徴を無視できない。

その為、技は地から湧き出る如く操り出される。

円に基づく曲線動作が目立ち、独特の呼吸法「気息の呑吐」と併い

「ムチミ」と呼ばれる粘りのある反動が錬られる。

「気息の呑吐」とは、後に「息吹」と称される腹式呼吸を意識的にコントロールし呼吸力によって、

身体を内面から鍛え、調整する方法であり「基本型」「三戦」「転掌」によって実践する。

息吹の種類は、呼吸を表に現わし鍛錬として活用する陽息吹と内面に秘めて表に現さず、

相手に測られない様に行う実戦法呼吸、陰息吹とに大きく分けられる。

鍛錬法の特徴としては「カキエ」と呼ばれる「小手鍛え」があり、

「掛け」による円運動の中から相手との実際の動きを捉え、「ムチミ」となる技の重さを養う。

この鍛錬法は、衝撃に対していかに負担を少なくして受け流し、動きの中から反撃に転じ

曲線を活かした部位の締め、相手の意識をも制御する融通無碍の動きを養うのに適し、

「発力の抜き差し」、「力の逆利用」「気の流れ」を感知する。

又、流祖宮城長順氏の教訓は「人に打たれず、人打たず ことなきをもととするなり」の無事の哲学だ

又、技が決まっても試合中断しない「自由組手」を正式種目としているのも剛柔流の特徴の一つ


・国際松涛館空手道連盟(こくさいしょうとうかんからてどうれんめい)

松涛館空手は1922年首里手を日本に紹介した「現代空手の父」船越義珍が創設した伝統派空手

船越氏は1936年に松涛館道場を設立。「松涛」というのは船越氏の書の雅号である

船越氏は自ら流派を名乗る事は無かったが、何時しか松涛流空手の呼び方が定着した。

この船越氏から、拓殖大学で空手の指導を受けたのが現国際松涛館館長・金澤弘和である

金澤氏は、船越氏の松涛館空手の世界普及を目指し自身が興す団体に国際松涛館と名付けた

結果、国際松涛館は世界91ヶ国に普及するまでになった。

この松涛館空手の特徴は一撃必殺の正拳上段突きで、つまり拳で相手の顔面を殴る技法である。

それを最速のスピードで突きを放つ事で抜群の破壊力を発揮する

だがこの技を当てる事は非常に危険の為に試合では寸止めルールで行われる


・国際FSA 拳真館(こくさいフルコンタクトサブミッションアーツけんしんかん)

羽山威行(はやまたけゆき)館長が93年に創始した立ち技総合格闘技の団体

その技術は、現在の社会生活の中で使える実戦的な技法である。

羽山氏は1957年千葉県に生まれ、青年期より空手を学び21歳で極真会館全日本大会出場

その後、少林寺拳法と出会い全国の道院を訪れ拳法修行を続ける。

様々な達人からその技術を伝授され、道院長となるも理想の格闘技を追求する為96年に独立。

国際FSA 拳真館を設立する。以後、99年には第1回国際大会を開き

海外支部もアメリカ・マレーシア・イラン・オーストラリア・カナダ・中国へと広げ、

世界でその実戦性が評価されつつある。

また格闘家の面とは別に、銀座の高級紳士服の老舗「ル・ガラージュ・アダムス」の

社長という青年実業家としての顔も併せ持っている。 


・糸東会(しとうかい)

摩文仁賢和が創始した首里手、那覇手等その他多数の技法を融合させた空手道。

摩文仁氏は、首里手の大家・糸洲安恒について糸洲派を学び、

後に那覇手の大家・東恩納寛量に東恩納派を学んだ。

中学卒業後警察官になった後も地方に隠れた首里手、那覇手以外の形・技法について模索し続け、

松村派、新垣派などの各派を修め空手以外には琉球古武道の棒術、釵術を学んだ。

それら全ての技術と精神を融合、融和させたものが糸東流空手道である。

その技法上の特徴は、単に突き蹴りだけでなく投げ、逆技といった技術をも含み、正に総合武道である

また、「守・破・離」(基本を忠実に・それを応用し・そこから独立する)という言葉に代表される様に、

形という基本を守りながら、それを応用し、組手と結び付けていく事によって作り上げられた

分解組手などに、その奥義までをも修めることが出来るように体系ずけられている。

また、精神教育に重点を置いた開祖・摩文仁賢和は「君子の拳」を標榜し

円満な人格の形成・向上を目指した指導を行った。

また、摩文仁氏は甲賀流忍法14世藤田西湖とも親交が深く南蛮殺倒流拳法も修得していたそうだ


1934年(昭和9年)に糸洲、東恩納両師の頭文字を取り「糸東流」を名乗って以来、

大日本空手道会、全空連結成に際して日本糸東流空手道会としての活動を経て、

1964年(昭和39年)に「全日本空手道連盟糸東会」が発足。

1997年4月には待望の本部道場が埼玉県朝霞市に完成。

1993年には「世界糸東流空手道連盟」が結成され、

日本国糸東会、パンアメリカン地区・アジア太平洋地区・ロシア地区・ヨーロッパ地区を中心に

約55 カ国が加盟しており今後もより一層の発展が期待される。


・士道館(しどうかん)

極真の猛虎・添野義三が空手とキックを複合させて創設した空手

1969年極真会館はキックとの対戦の為に「極真ジム」を設立

1970年極真ジムは空手&キック道場としてスタート。その極真ジムが現在の士道館の前身である

当時、「極真の猛虎」の異名を取り実力者であった添野氏はキックの試合を経験し

自身が理想とする空手のスタイルを見出す。そして士道館を設立

同年11 月には「第1回士道館杯争奪空手道選手権大会」を開催

士道館のルールは、組んでからの膝蹴りが認められ、延長2回でも決着が着かなかった場合は

ボクシンググローブを着用しての顔面攻撃が認められる。

その為、普段からグローブ着用や首相撲等の練習が行われている

士道館には空手クラスとキックボクシングクラスとがありどちらのクラスへも参加できる

添野氏が経験し、学んだ全ての事が凝縮された空手。それが士道館空手なのである

この士道館空手の中でも特徴的な技は中段回し蹴りで、

相手のわき腹を狙って蹴りぬくこの技は、まともに決まれば内臓を破壊してしまう恐れがある

特に左中段回し蹴りの場合は、蹴り足がちょうど肝臓の部分に当たる為ダメージは相当なものだ

因みに、マイケル・ジャクソンは士道館空手の名誉五段である。


・真盟会館(しんめいかいかん)

拳法の逆技から空手の攻撃力を兼ね備えた総合武道を目指す空手道

創始者・狭間広和(岸和田市出身)が30年余における実践空手の経験を経て、

昭和62 年に真盟会館を設立。

昭和63 年には国際空手・拳法連盟に加盟。−現在に至る。


・正氣舘(せいきかん)

流祖・渡辺勝(大正14年大阪市生まれ〜平成3年7月8日) が昭和21年に創始した空手道

渡辺氏は、幼少より武芸を好み武徳会で銃剣道を

空手道を賢友流・友寄隆正と糸東流・摩文仁賢和の両師に学んだ

併せて、古武術を甲賀流14世・藤田西湖に師事している。

昭和21年に、日本空手道會東成支部として「正氣舘」を設立。全国最年少の道場主宰者となった

昭和23年より大専・理工大・近畿大・関学・関大・商大・天理大・等の 

空手道師範を歴任し空手道諸派の連合機運を盛り上げた。

昭和十八年、日本空手道糸東流本部道場の師範代となり、

昭和十九年には摩文仁賢和先生より五段の免状を授与された。

平成3年に、病に倒れた後は長男・渡辺勝彦が二代宗家としてその明晰を継ぎ

正氣會本部道場正氣舘館長として、流祖である父親の教えを守り道場を継承している。


・清心館(せいしんかん)

館長・大久保勝美(札幌生まれ)は中学時より空手の魅力に惹かれ、修行(剛柔流)を開始

昭和51 年に高校空手部入部(松涛館)と同時に和道流及び清心流へ入門。並行して3派を学ぶ。

東海大学空手部(少林寺流)へ入部、昭和54年度主将。清心流札幌支部長に就任。

拳友とともに他大学空手部メンバーと組手研究会「制和会」を設立。

自衛隊在任時、清心流遠軽支部、同留萌支部を設立。除隊後札幌へ戻り、札幌支部再建

昭和61 年には、現在の清心館大久保道場を設立して清心流会派道場としてスタート。

現在、清心流会派の連合組織、清心流空手道協会に所属し同協会北海道地区本部長を務める。

同協会公認八段範士。

最大会派・清心館大久保道場連合会(大久保派清心流)首席師範。


・正道会館(せいどうかいかん)

新国際実戦空手道連盟 正道会館

K- 1発案者・石井和義館長が率いるフルコンタクト空手団体

進化する空手を標榜し従来の空手の域を越えた活躍で知られている

一般のアマチュア部門に加え、プロ部門も持っており

グローブ空手、キック、総合格闘技などとの交流を通じて独自のカラーを打ち出す

「K- 1グランプリ」等大きなイベントを開催して国内ばかりか海外でも非常に人気がある。

正道会館自体は大山倍達が創設した極真会館の亜流団体である。

又、石井氏の師は芦原会館を創設した「ケンカ十段」芦原英幸


・誠道塾(せいどうじゅく)

世界誠道空手道連盟 誠道塾

創設者・中村忠を筆頭にニューヨークに総本部を構える空手道。

ニューヨーク世界誠道空手道連盟を主宰

極真会館初の正師範代を経て,初代北米地区委員長を務める。

1976年6月に誠道塾開塾。


・禅道会(ぜんどうかい)

世紀末の格闘技界に、実戦と理論を統合した空手道団体として生まれた禅道会。

主席師範は小沢隆。

「青少年の健全育成」「バーリトゥード」「生涯武道」を理念に新世紀を目指している


・全日本新空手道連盟(ぜんにっぽんしんからてどうれんめい)

新空手道連盟代表者は神村栄一。

ボクシンググローブを着用し、顔面への突きも認める

実戦的な空手ルールを追求する空手団体の「集合体」を指す。

選手レベルに応じて、K−2ルール・K−3ルール・K−4ルールと

初心者でも参加できるようルールを細分化しているのが特徴です。

また、過去80回を越える大会を開催しており

伸べ出場者数は一万一千人近くと日本で最も実績と歴史を誇る空手団体である


・全日本実業団空手道連盟(ぜんにっぽんじつぎょうだんからてどうれん めい)

昭和35年全自衛隊空手道連盟発足

昭和35年西日本実業団空手道連盟発足

昭和39年東日本実業団空手道連盟発足

昭和45年東西実業団空手道連盟合併

昭和57年全日本実業団空手道連盟発足


・大道塾空手(だいどうじゅくからて)

「格闘空手」を標榜として実践空手を模索している団体で、

極真会館第9回全日本チャンピオンである東孝が1981年に創設した。

元々彼は名の知れた柔道家で「実践に通用する格闘技」を模索していた

東氏は大道塾を作ると同時に「格闘空手」「格闘ルール」を唱え、

極真空手では禁じられていた顔面殴打や、掴んでからの投げも認めるという、

当時としては画期的なルールを打ち出した。更に実践を想定して、

絞め・関節技をもその体系に加え、徐々に空手という範疇を越えて総合格闘技的へと変化

ただ、安全性にも気を配っており初心者には顔面無しルールで稽古させ、

顔面アリの場合はスーパーセーフと呼ばれる防具を頭部に着用する

その為、大道塾は空手というよりは総合格闘技として見た方が現実的であるだろう 

・天心会館(てんしんかいかん)

館長・海老根功(えびね いさお/1955年茨城県八郷町生まれ)が創設した

円の動きを基調とした捌きの技術を追求する空手道。

1975年極真会館四国支部入門。故芦原英幸氏に師事し愛媛県八幡浜道場にて修行を積む

その後、茨城県に於いて極真会芦原道場として活動を開始

芦原会館茨城支部長を経て1995年独立、天心会館を設立。

「天心」とは天空の中心を示す言葉で、

天空の中心を見上げ向上心を持ちながら浩然の気を養い、

のびのびとおおらかな心で武道に取り組んでいきたいという気持ちが「天心会」の名に込められている

天の心とはまた、私を滅した心という意味でもある

「天心」の語にはまた「非理法権天」の意があるのである

「非理法権天」は南北朝時代の武将・楠木正成がその旗に記した言葉で、

「非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず」という言葉に基づくもので

「人は結局は天の命のままに動くもの、天を欺いて私を通すことはできない」という意味がある

これは「自然の法則に逆らわない合理的な動きをもって相手を制することのできる本物の空手をめざす」

という意味でもあり又「傲慢を戒め、社会に貢献する人間となるべし」という意味でもあると云う


・日本空手協会(にほんからてきょうかい)

社団法人日本空手協会は、昭和33年4月10日文部省認可(委社第180号)認可による

空手道公益法人として、国内はもとより世界各国で空手道の普及と指導に当たっており

日本が生んだかけがえのない武道文化を、正しい姿で継承発展させる事こそが責務としている。

空手道の原点を首席師範・船越義珍であるとし、船越氏は唐手術を空手道と初めて改名、

五々条の道場訓を定められた偉大な空手道哲学として精神文明の担い手でもある。

船越氏は明治3年沖縄県那覇市の武士の家に生まれ、身体虚弱の為、唐手術に入門

大正11 年には「琉球拳法唐手」を執筆し、

昭和4年に唐手術を「空手道」と改名して今日に至る。

昭和23 年5月に日本空手道協会設立、最高師範に就任する

昭和29 年には、全日本総合武道大会において空手界最高功労者として表彰される。

昭和32 年4月26日、88歳で逝去される

昭和32 年10月20日日本最初の全国空手道選手権大会開催(東京体育館)

以後毎年全国大会を挙行している

昭和33 年4月10日に遂に文部大臣より社団法人認可(許可委社180号)

昭和36 年第5回全国空手道大会に皇太子殿下の御臨席を賜る

昭和37 年全国選抜空手道大会を九州福岡で開催、以後8回開催

昭和40 年第8回全国大会から日本武道館で開催

昭和50 年IAKF世界大会開催(米国)。以後2年毎に第4回まで開催

昭和58 年 師範会主催全国合同合宿開催(日本武道館勝浦研修センター)。以後毎年開催 

・日本空手道無門会(にほんからてどうむもんかい)

会長・富樫宜資が、山篭りや極真への挑戦など

極限の修行を通じて培った空手の技を、更に磨き上げ受即攻を完成させた空手道

その技術は、総合格闘技の様に多くの技を取り入れるのではなく、無駄を省き

純粋に空手の突き・蹴りを突き詰めていく事により一撃で相手を倒す空手に比重を置いている

その為、無門会は試合ルールに投げ・グラウンド等も取り入れているものの

逆突きの一撃で相手を倒すことをあくまで理想としている。


・白蓮会館(びゃくれんかいかん)

1984年に杉原正康館長が創設したフルコンタクト系の国際空手拳法

白蓮会館創始者・杉原正康氏は高校入学と同時に柔道を始め、

高校卒業間近に少林寺拳法の道場へ入門。以後15年に渡り少林寺拳法の修行に没頭する

杉原氏が空手界に姿を表したのは、1983年に開催された正道会館主催の「全日本選手権」

元より極真空手に興味を持っていた杉原氏は、日本少林寺拳法以外に自己流ながら

極真の技術も積極的に研究し、道場では弟子達に自ら研究した技を伝授していたと云う

丁度その頃、日本少林寺拳法は乱取りを禁止。同時に打撃よりも投げ技や関節技中心へと移行

その流れに納得できなかった杉原氏は日本少林寺拳法を離れる事となる

1984年杉原氏は「国際空手拳法連盟・白蓮会館」を設立。翌1985年には全日本選手権を

開催した当初、白蓮会館ルールは空手というより少林寺拳法に近いものであった

その為投げ技や関節技も多く含まれていた。だが試合が縺れると掴みが多くなり、

有効な攻防が見られなくなるといった理由から、空手ルールに近いものへと変化していった

それが現在の白蓮会館のルールである

白蓮会館の特徴的な技は下突きで、相手の鳩尾を下から突き上げるこの技は、

タイミングよく決まれば勿論一撃必殺が可能で、又次の技へ繋げる方法としても有効である

白蓮選手の多くがこの技を得意としており、その意味で下突きは白蓮会館の十八番とも言える。

中でも、白蓮会館の主砲と言われる南選手の下突きはパワフルで知られている
 

・和道会(わどうかい)

1934年4月1日に和道会の前身である「大日本空手振興倶楽部」が、

開祖・大塚博紀(?〜1982年1月29日)により創設される(東京市神田区末広町)

1938年2月25日「大日本空手道振武会」として発足(東京市淀橋区柏木町)。

1940年5月5日「紀元2600年奉祝・第 44回武徳祭」に「和道流空手術」の名称で参加

以降、「和道流」を名乗る事となる。

1947年「和道流規約」を新制定。明治大学空手部内に本部を、大崎警察署武道場に稽古場設置

1955年5月5日には、初の全国大会が開催(渋谷公会堂)

1964年5月1日全日本空手道連盟(大浜信泉会長)が発足。有力団体のひとつとして加盟する。

1967年6月5日になると「和道会」に名称変更。

1976年7月11日第12回和道会全国競技会(日本武道館)。以降、全国大会は毎年の開催となる。

1989年8月25〜26日第1回ワールド和道カップ大会開催(ロンドン市営体育館)。

以後、和道会ワールド空手道カップは開催され続けている
 

柔術(神道揚心流)の影響が色濃い流派であり、

「捌き」「流し」「押し」「引き」「入り身」「転身」などの技法が見られるのが特徴。

相手の正面からぶつかるのではなく、自分の正中線を常に相手の攻撃目標から

外させてやるものであり、極めて合理的な技法といわれる。

これはそのまま組手試合に対応できるものであり、

没個性化してしまったといわれる現代の試合においては、

流派の特色を試合で打ち出せる稀有な例となっている。

基本組手では各々の技について、基本技である「表」、応用技である「裏」の技が指導されている。

形は、クーシャンクー・ナイハンチ・セイシャン・チントウ・バッサイ・ニーセーシー・ワンシュウ・

ローハイジッテ・ジオンなどが指導されている。

現在では、国内1350支部、海外250支部、会員約85万人、有段者約18万人(1997年9月時)を擁し、

空手団体としては日本有数の規模を誇る。技術機関として「中央技術本部」を置き、

資格審査の実施や技術の向上のための様々なことがらの実務や運用にあたっている。

段位のほかに称号(範士、教士、錬士)の審査・認証も行っている。
 

・沖縄(琉球)空手(おきなわからて)

12世紀頃、各地に按司が出現し城(グスク) を築き村々を支配した

やがて三大勢力分野が形成され、1429年尚巴志の三山統一によって琉球王国が成立した。

14〜16世紀にかけて、琉球は中国はじめ、周辺諸国と盛んに中継貿易を営み繁栄

しかし、この時代航海途中における和寇の脅威があり、また国外での身の安全確保から

武術は不可欠であった。この様な歴史的背景の中から沖縄独自の手(ティ)が生まれ発達してきた。

長い年月にわたる交流の中から中国始め東南アジア諸国の武術の

良さを沖縄固有の手(ティ)に加味して、今日の空手・古武道が完成した。

王国時代は首里城を中心に発達した「首里手」、商業都市那覇で栄えた「那覇手」、

両者の中間にあった泊村一帯では「泊手」が発達し、

いずれの地域でも著名な武人を多く輩出し、その伝統を今日に伝えている。

空手は元々秘技であり、門外不出であった関係上文献資料に乏しく殆ど口伝、

しかも個人指導で伝承されてきた。しかし、廃藩置県後新しい諸制度が施行され、

同時に明治の教育制度の中に空手が学校教育として採用された。

一方では一般公開される動きが生まれ、大正時代に県外へ、昭和初期に海外へも紹介された。

当時の沖縄空手は「首里手・那覇手・泊手・上地流・御殿手」の5つに大別が出来、

現在の沖縄空手の主流は「小林流・剛柔流・上地流・松林流」の4流派に別れる。
 

1.首里手(シュリテ)

首里は琉球王国の首都として、

15世紀頃から1879年(明治12年)の廃藩置県まで琉球の政治文化の中心地として栄えた。

琉球王府に仕えた首里士族は文武両道に優れた者が多く、武術の面に置いても

多くの武人を出している。なかでも松村宗棍は「武士松村」と言われた傑出した武人である。

松村氏は幼少期から唐手佐久川こと照屋筑登之親雲上寛賀に武術を師事し、

剣術の指南を薩摩剣客・伊集院矢七郎師より受け、示現流を修得し、その奥義を極めた。

そして首里士族の武術は佐久川氏と松村氏により形成され発展していった。

松村氏の高弟には、安里安恒・糸州安恒などがおり、また安里安恒の高弟には富名越義珍がいる

糸州安恒は松村氏の他にも那覇手の長浜や泊手の松茂良などに就いても教えを受け、

その他当時における有数の大家は、おおかた歴訪し、質疑をしたり、指導を受けたりした。

 首里の空手を大別すると昭霊流と昭林流に分けられる。

昭霊流の開祖は大兵肥満の人だったそうで、その性格から自然に割出された一種の特色がある。

昭林流もこれと同じく、その創始者が痩形だったためその人に適する武術が生まれた。

糸州安恒は昭霊流の代表者で、安里安恒は昭林流を代表する人である。

首里手は松村宗棍から糸州安恒へ、そして喜屋武朝徳や知花朝信へと継承された。

喜屋武朝徳は30歳の頃には「喜屋武ミー小」の異名をとり、首里や那覇で武名が伝わった。

この喜屋武朝徳の流れを汲む流派が、「少林流」や「少林寺流」である。

一方の知花朝信が開祖である流派が「小林流」である。

 

2.那覇手(ナハテ)

古くは浮島と呼ばれた那覇は15世紀半ば尚金福時代に、長虹堤が築かれ首里真和志と繋がれた

百年後の16世紀半ば頃には、屋良座森城と三重城の突堤が築かれ、交通上、国防上、

また港湾として整備され、中国や南蛮、日本本土との貿易港として賑わっていた。

明治12 年(1879年)4月に廃藩となり、同年6月那覇は「西・東・泉崎・若狭・久茂地・久米・泊」

の7ヶ村になった。特に久米村は、びん人三十六姓の居住地であり、

彼ら琉球に渡来したびん人の中には、中国拳法に長ずる者がいたがその武術は、

久米村の子孫に継承され、この中国拳法が後に那覇手に多大な影響を与えたと言われる。

那覇士族の中からは当時多くの武術家が輩出しているが、那覇手と言われる様になったのは、

東恩納寛量(1853〜1915年)の頃からで「那覇手中興の祖」と呼ばれている。

 東恩納寛量は17歳の頃、久米村のマヤー・アラカチこと新垣世璋(1840〜1920年)に

師事し武術を学んだ。東恩納は新垣から厳しく鍛えられ、当時若くして那覇四町に

おいて東恩納の名を知らぬ者はいない程の武術家に成長した。

だが東恩納はそれでも飽き足らず、若いうちに一度は中国に渡り彼地の武術を学びたい

と心に決め、密かに準備をした。明治8年頃(1875年)東恩納22歳の時、密航船で福州に渡った。

東恩納はルールーコー(謝崇祥、1852〜1930年)に弟子入りし、鳴鶴拳の基本を学んで

3年後の明治10年(1877年)、漂流難民船で那覇に帰って来たのだ。

東恩納は帰国早々から家業に従事し、福州での拳法の修行について一切口にしなかったが、

福州を往来する商人達の間から「唐手東恩納」の名が広まり、弟子入り希望が多くなった為

子弟を指導する事になった。明治35、6年(1902、3年)頃には、

許田重発(1887〜1968年)や宮城長順(1888〜1953年)等が、

東恩納が福州で修得した空手の指導を受ける様になり、たちまち世間の注目する所となった

その後、東恩納の空手は那覇手と呼称され黄金時代を築いた。

また、許田重発は長年教職に身を置き傍ら空手の指導に専念し「東恩流」と命名した。

東恩納の指導は厳格だったが、直系である宮城長順等に引き継がれ「剛柔流」と命名された

宮城氏の弟子には、比嘉世幸(1898〜1966年)と新里仁安(1901〜1945年)等が高弟として有名
 

3.泊手(トマリテ)

泊港はその昔、首里王府の貿易港として栄えた。

特に中山王府樹立後は泊村が海外からの玄関口として諸外国との交流が盛んになり、

泊村の人達の中から、漢学・芸能・音楽・武術等種々の分野で活躍する大家が誕生した。

泊港に上陸した外国人は、泊の聖現寺(俗称天久の寺)の境内に種々の物資を陸揚げし、

この寺が、彼らの琉球滞在中の活動の拠点になったと言われている。

中には中国、朝鮮等の交易船が漂着する事もあった。その為、琉球王府の命により

聖現寺周辺に、これらの漂着者を収容する客舎が設けられ、そこで漂着者の中にいる武人から

武術の伝授を受け、首里・那覇とは変った独特の泊手が誕生したと言われている。

泊手は、照屋規箴(1804〜1864年)と宇久嘉隆(1800〜1850年)に始まる。

この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが松茂良興作(1829〜1898年)である。

松茂良氏は泊手を、首里手・那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、

後世「泊手中興の祖」とまで言われた。松茂良氏は一生を空手道に捧げ泊手を確立し、

後進の指導に力を尽くし、幾多の逸材が輩出した。

そして後世、「泊の武士松茂良」と称されたが1898年11月70歳でその生涯を閉じた。

松茂良氏は山田義恵(1835〜1905年)、親泊興寛(1827〜1905年)と共に「泊の三傑」と称された。

「松茂良は突きの名人」「親泊は足技の達人」「山田は身体を固くする」という特技の持ち主であった

松茂良氏の武術はハーリーヤーの山田義輝(1866〜1946年)、

安富祖の久場興保(久場小サールー、1870〜1942年)、

泊中道の伊波興達(シースータンンメー、1873〜1928年)等に継承された。

伊波興達の武術は、さらに仲宗根カーカーこと仲宗根正侑に継承された。

仲宗根は自身の空手道の研鑚に努め、60歳を過ぎるまで弟子を取ろうとしなかった為、

泊手の歴史に空白の期間が生じた。その仲宗根が初めて本格的に空手の後継者を育成する為に、

一番弟子として入門を許可されたのが、渡嘉敷唯賢(沖縄剛柔流泊手空手道協会会長)である。

渡嘉敷氏は厳しく鍛えられ泊手の神髄を余すところなく修得した。

仲宗根氏は昭和51年、老齢のため「松茂良派正心館」道場の看板を渡嘉敷唯賢に譲っている。

その他に泊手として長嶺将真が、両流の中興の祖である首里手、松村宗棍と泊手

松茂良興作の空手を研鑚した結果、両師の名を後世に顕彰する意味も含め「松林流」を称えている
 

4.上地流(うえちりゅう)

上地完文(1877〜1948年)を始祖とする流派。

明治30 年(1897年)完文は徴兵忌避して、同郷の数人と中国福州に脱出。

間もなく当地の拳術承・周子和に師事。13年間「虎拳《パンガイヌーン(半硬軟)拳法》」を修行。

体練型の「三戦(サンチン)」「十三(セーサン)」「三十六(サンセーリュー)」の3つの型と

「小手鍛え」の技法を伝授された。また当地での道場開設も許され3年間指導にあたる

完文は明治42年住み慣れた福州を後にし帰郷。しばらく故郷の伊豆味村で

農業に勤しんでいたが大正13年47歳の時、単身和歌山県手平町に転出会社努めを始める。

大正15 年・県人らに請われ福州以来初めて自国で道場を再開、

「パンガイヌーン流空手術研究所」の名称で看板をあげる。

昭和2 年、完文の長息・完英(1911〜1991年)が17歳の時上和、

父・完文から中国直伝の秘技「パンガイヌーン拳法」を師事。父子供にその普及に当たる。

昭和15 年・パンガイヌーン流の名称を「上地流」と改め、道場名も「上地流空手術研究所」とした。

昭和24 年・完英は大戦後始めて宜野湾村に「上地流空手術研究所」の看板を掲げ指導を再開

昭和32 年・「上地流空手術研究所」を「上地流空手道場」へと改めた。

この頃から上地流は世界的に普及発展へと胎動しはじめた。

上地完文の中国拳法伝授は実子・完英へ引き継がれ、今や空手界に大きな影響を持っている。
 

5.御殿手(ウドゥンティ)

琉球王朝第10代尚質王を始祖とする秘伝の武術。

代々王家の一族、しかも一族の長男にだけ一子相伝という形で伝えられたとされている。

6歳から修行に入り、元服までにその全てを体得する事が条件であり

例え血を分けた兄弟といえど見る事は許されず、300年以上受け継がれてきた。

現状で判明している技術は、まず上体を垂直に伸ばし動かさず、

常に歩きながら技をかけるのが特徴で、いかなる武器を持つ相手に対しても

怪我をさせずに戦意を失わせる事を目的としている。

足技が多彩で、剣・槍・長刀・ヌンチャク等も扱い可能な総合的武術であるとも云える。

現在「御殿手」の使い手は、齢97歳になる老人・上原清吉1人しか存在しない

上原老師は「本部御殿手」12代宗家にして、現存する「御殿手」ただ一人の使い手である

彼は王家とは特に関係無いのだが、強くなりたい一心で11代宗家・本部朝勇に挑み、

敗れはしたものの必死の懇願で弟子入りを果たした。その後10年以上の稽古をつみ、

フィリピンで徴兵される前に「本部御殿手」を伝授した証の巻物を師匠から受け取ったのだ。
 

カラ リパヤット(KALARIPPAYATTU)

インド独特の格闘技でヨガに似た柔軟体操から剣術・相撲・拳法が合成された様な動作をする

剣術面ではこん棒・長棒・サーベル・剣を使用

拳法面では空手の様な足技で、その種類は19も存在し驚異的な跳躍力も必要とされる

15、6世紀に体型付けされ中国へも伝えられたと云われ、

空手の源流・少林寺拳法のルーツとする説もある

競技化こそ遅れているモノの、その技術は実戦的である。
 

カポエイラ(CAPOEIRA )


ブラジルで生まれた逆立ちした状態での蹴り技を主体にした芸術的な打撃系格闘技

音感が優れた黒人が行っていた為、飛んだり、跳ねたり逆立ちしたりと非常にリズミカル

16世紀ブラジルには奴隷制度があり、黒人奴隷達は横暴な主人から身を守る術として

カポエイラを生み出した。だが手枷を付けられた状態だったので特異な上体での蹴りが主体となった

カポエイラには柔軟な上半身を利用した蹴りや、足を使っての旋廻技、飛び蹴り等があり

格闘技である事を悟られない為に、踊りとしてカモフラージュされたものも多くある

その驚異的な強さから当時ブラジルを植民地としていたポルトガルはカポエイラ禁止令まで出した

(ブラジルの国名の由来は当時代表的な

  輸出品目だった「パウ・ブラジル」と言う染料になる木から来ている)
 

16世紀頃ブラジルではサトウキビを中心とした農業発展の労働力を必要としていた

当時のブラジルはポルトガルの植民地であり、普通なら原住民が労働力となるはずが

その原住民が元より仕事を殆どしない生活をしていた為労働の技術が欠如していたのだ

その為ポルトガルは米国から多くの黒人奴隷をブラジルへと大量に送り労働力を確保した

当時のブラジルの表玄関と言える港町バイーア(サルヴァドール)には

奴隷市場(今のペロウリーニョ広場)が建てられて人身売買が交わされていた

この時、ブラジルには奴隷と共に民族楽器(ビリンバウ等)や宗教(カンドンブレ)、

料理など様々なアフリカの土着文化が流入する事になりました。

その中に西アフリカのアンゴラ地方の黒人奴隷が持ち込んだ土着格闘技があった

これがカポエイラの源流と云われている。

土着格闘技であったカポエイラはやがてブラジル奴隷達により実戦的なものへと変貌する

支配者達は「例え練習している所を見つけただけでも即座に処刑する」という制度で弾圧するも、

奴隷達は処刑による死者を出しながらも支配に屈服するのを嫌いカポエイラを捨てる事は無かった

又、奴隷同士の喧嘩も見つかると即刑罰を受ける情況だったので

喧嘩に見えない様に喧嘩をする手段としてカポエイラが生まれた等とも云われている

勿論服従から逃れ自由を求めて逃亡した奴隷もいた

彼等は「キロンボ」と云う共同体を作り政府に立ち向かった

その伝説的指導者・ズンビが率いたキロンボである「キロンボ・ドス・パルマーレス」は、

実に24 回に渡り政府軍の攻撃を凌ぎ破ったと云う

だが本腰を上げた政府により1697年遂に敗北するも、

奴隷達は自由を奪われるより自決の道を選んだという.....

(なお政府軍との戦闘の際、常にカポエイラを使用していたワケではない)

1865年〜70年・パラグアイ戦争では兵隊不足の為、黒人奴隷達も正規の部隊として派遣された

中には勿論カポエイラ戦士もいた訳であるが、近年までカポエイラの歴史は弾圧の歴史であった。

1888年には奴隷制度は廃止されたが、以前としてカポエイラは違法とされていた

「ビリンバウ」と言う楽器はこの頃にカポエイラに導入されたのだが、

警官の目が届かない時はカポエイラ練習用のリズム(サォン ベント グランジ ジアンゴーラ等)

を奏で、見まわりの警官等が現れた時即座にサンバのリズム(カバラリーア)に切り替え、

練習に夢中になってるカポエィリスタ達に自然に警官の存在を知らし、

カモフラージュのためのサンバを踊るようにさせたと云われている

カポエイラが合法となるのは1937年のヴァルガス大統領の時代です
 

「カポエィリスタ」とは「心・技・体」全てを要求され、又多くの血を流し伝承し続けてきた

先駆者達への感謝の気持ちを技術と共に次の世代へ伝える者の意味で

練習の最初と最後に右手を胸に当て、前に出しながら「Sao(サォン)!」

(もしくは「Salve(サウヴィ)!」)と云うのは先駆者達への敬礼であるのだ

カポエラの基本技術は円運動で、攻撃も防御も円運動の流れで繋いでいく

又、組手も存在しブラジルではカポエイラで戦う時「ジョーゴ(Jogo)」と言う言葉を使用する。

ジョーゴはお互いを尊重しあい、相手との距離を図りながらベストな技を繰り出し合う

そして終了後には握手で終わる。その為無理に勝敗を決める事はしない

カポエイラには試合が無い代わりに「ホーダ(Roda)」と呼ばれるカポエイラ集会が定期的に催される

カポエイラのホーダにはその2つの意味が含まれている

まずホーダを行う場所には、床に大きな「円」が書いてある

その中で2人のカポエィリスタがジョーゴを行うのである

その円をカポエィリスタ達で囲みその中心に楽器隊が陣取りる。その様が「集会」なのである

現在カポエイラには様々な流派が存在するが、それらは大きく分けて二つの流派に分類できる

1つはメストゥレ(マスター)・パスチーニャが創始した「カポエィラ・アンゴーラ」

もう1 つはメストゥレ・ビンバが創始した「カポエィラ・ヘジォナウ」(成立年はヘジォナウの方が先)
 

・カポエィラアンゴーラ(CAPOEIRA ANGOLA)

アンゴーラは比較的ゆっくりとしたテンポで動き、儀式的な雰囲気が強い

しかし実際に闘う場合は相手を牽制しつつ隙をついて一気に接近し鋭い蹴りを放ったり

足を絡ませ相手を倒すと言った攻撃を行う。騙しあいやフザケあいの要素等もかなり強い

アンゴーラは手を地面に付けて行う事が多く、逆立ちなど頭を低い位置にする事が多い

動物の動きからヒントを得た動作が多いのも特徴である

又、ヘジォナウに比べアフリカ土着格闘技に近い形のものを継承している
 

・カポエィラヘジォナウ(CAPOEIRA EGIONAL)

ヘジォナウはアンゴーラに比べて動きのテンポが速く、

華麗な蹴り技とアクロバティックな動作が多く含まれている

又、多彩な技の中には空手・サバット・テコンドーなどカポエイラ以外の格闘技や

体操やダンスから取り入れた技もあるが、これは創始者:メストレ・ビンバが取り入れたのでは無く

メストゥレ・ヴェフメーリョ27、メストゥレ・バンバ等を初めとする

後の継承者達によって徐々に取り入れられてきたものである

実際、メストゥレ・ビンバのカポエィラを撮影したフィルムがあるらしいが、

その動きは現在のものに比べるとシンプルなモノの様である

昔のカポエラの動きは、現在も健在の古いカポエィリスタ達の動きの中からも見れます。

現在ショーやスポーツとして一般的に定着しているカポエイラはヘジォナウの方になる
 

キッ クボクシング(KICK BOXING)

パンチ&キックによる攻撃を主体にした打撃系格闘技

1966年に野口修(国際式ボクシングプロモーター)がタイの国技・ムエタイを元にして創設

彼はムエタイを日本に紹介し、日本で興行を打つ為まず極真会館総裁・大山倍達に相談して

1964年に黒崎健時・中村忠・藤平昭雄の3名の空手選手をタイへ派遣。

日タイ対抗戦を行い2勝1敗という極真空手の勝利に自信を深めた彼は、

改めて日本でムエタイをプロモートする為1996年1月31日に「日本キックボクシング協会」を設立した

(当初は「キックファイト」と云う名称に決まりかけていたらしい)

キックボクシング初の興行は同年4月に行われ、「真空飛び膝蹴り」で有名な沢村忠(当時空手家)

をキックに勧誘。世界第1号キックボクサー沢村をメインにスタートした。

キックボクシングがメジャーに成ったのはTBSテレビ放送が始まった時期である

1968年には「協同プロモーション」、翌年に「岡村プロモーション」が設立され

各テレビ局の間で熾烈な放送権争いが始まる事となった

1971年に協同プロモーションと岡村プロモーションが提携し「全日本キックボクシング連盟」を発足。

キックは日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング連盟の二大団体で構成される事となる

日本キック協会エース・沢村氏に対し、全日本キック連盟は藤原敏男を投与

藤原氏に至っては公式戦で唯一ムエタイ越えを果した。

1970年代中期米国のマーシャルアーツが上陸をキッカケに日本での格闘技ブームは加熱するが

1980年に入ると、沢村氏の引退をきっかけにキックボクシングは衰退の一途を辿る。

更に藤原氏も引退を表明。キック界のスターが相次いで姿を消す事となった

だが、近年K-1等の影響によりキックボクシングの注目は再び高まっている

技術的にはムエタイとほぼ同様の構えから中段・下段の技を繰り出し、

ダメージを蓄積させガードが下がった時に上段への攻撃でトドメをさす戦闘方法が一般的である
 

・全日本日本キックボクシング連盟(AJKF) 代表者/金田敏男

・アジア太平洋キックボクシング連盟(APKF) 代表者/ 南樹三生

・J- NETWORK(J-NET) 代表者/ 大賀雅裕

・日本キックボクシング連盟(JKF) 代表者/渡辺信久(代表理事)

・キックユニオン(K-U) 代表者/ 小林秀至

・マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟(MAKF) 代表者/ 山木敏弘

・新日本キックボクシング協会(SNKA) 代表者/ 伊原信一

・ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)  代表者/ 藤田真(理事長)

・全日本学生キックボクシング連盟(UKF)
 

クラビクラボン(KURABI-KURABON)


タイの民族武術で、剣等の武器術を駆使する


クラ ブマガ(KRAV MAGA)

クラブマガはヘブライ語で「接近戦」を意味する言葉で、

イスラエル軍(IDF)やイスラエル国家警察等その他セキリュティー機関に採用され

海外に置いては米国のFBIやSWATにも採用されている

このクラブマガはイスラエル軍白兵戦主任教官を務めていた

イミ・スデ・オー(イミ・リヒテンフェルト)によって1978年に創案された

創始者・イミが強調したクラブマガの基本精神は以下の通り

「怪我をしない/謙虚であれ/適切な行動をせよ/相手を殺さなくて済むまで上達せよ」
 

防御と反撃が論理的に首尾一貫しているのがクラブマガの特徴で

急所攻撃等を多用する為即戦力の育成や、老若男女や体力問わず出来る護身術でもあるのだ

クラブマガの特徴としてもう一つ上げたいのが、止まる事の無い連続した攻撃である

パンチでも膝蹴りでも連続で掛けれるのなら、相手が転倒し反撃ができない状況になるまで、

ひたすら一度打った所への執拗でスピーディーな攻撃であるのだ

そして相手の反撃力を奪った段階で、素早く逃走へと移る

そう護身術にとって大切なのは自分の身を守る事であり、相手を倒す事では無いのである。
 

剣道 (けんどう)

剣道は剣道具を着用し竹刀を用いて一対一で打突しあう運動競技種目とみられるが、

稽古を続けることによって心身を鍛練し人間形成を目指す「武道」である。      

以前は数知れないほど多くの流派が乱立していたが、

剣道会を統一する「全日本剣道連盟」が設立され、昇段システムや競技ルール等について

圧倒的なリーダーシップを取る様になると過去の流派は有名無実化していった
 

剣道の稽古には竹刀と防具が用いられ、入念に整えられた4枚の竹片から成る竹刀は

その両端を先皮・柄皮・(刀の峰を表す)弦によって束ねられている。

防具は面・胴・垂・小手の4つから成り、それぞれ頭部及び

咽喉部・胴部・腰部・手首を保護するよう作られている。

剣道では頭・胴・手首・喉の4つの基本的な打突部があり、それぞれ更に左右に分けられる。

これら打突部への攻撃はそれぞれ一本と数えられるが、確実な打突とみなされる為には

本来真剣を用いた実戦の場で要求される、

充実した気勢・適切な刀法・正しい体の運用という3つの条件が満たされていなければならない。

剣道の試合は原則として三本勝負の形で行われ、試合時間は5分と定められている

試合時間内に二本を先取した者が勝者となるのだ。

ただし、一方が一本を取り試合時間が終了した場合には一本を勝ち取った者が勝者となる

又、制限時間が終了しても勝敗が決しない場合は一方が一本を獲得するまで延長戦が行われる

打突が有効であるか否かの判断は3名からなる審判によって決定される。

なお、剣道の試合は一般にトーナメント形式で行われる事となる

剣道の稽古は幾つかの異なる稽古法から成っている

それら稽古法は各々剣道に於いて必要とされる技術と力の異なる側面を養うよう考えられているのだ

初心者の段階では、相手の動きに対して自然に動くことができるよう、

基本稽古を繰り返し行うことで正しい動作を身に付けることに重点が置かれる

修練を積むに従って、いかなる状況に於いても平常心を保つことが可能となるよう、

より精神的な側面における修練が要求されている。

こうした稽古に伴って、礼儀作法の実践も求められてくる

これは、剣道の主眼は「揺るぎない自信」「礼」「他者への敬意」等からなる人格形成に置かれている

武士達にとってこうした事を身に付けることは最も重要なことでもあったのである。
 

骨法(こっぽう)


実戦に拘り物理的破壊よりも浸透性破壊力を重視した日本武道で、創始者は堀部正史

日本古来の柔術等から流れる様な総合格闘技的な戦いを模索しており

武道のイニシャル「B」から採った「B-1」大会を開催する等日本武道の活性化を目指している

技術面では状況に応じて技を繰り出し相手の攻撃力を奪う総合格闘技

またストリートファイトを想定している為、格闘技の三大要素「打つ・投げる・極める」を

単独の技とせず流れとして組み込む事により防の最効率化を図っていく。

骨法の手技では浸透性に重点を置く為当て身は拳ではなく掌底が使われる

掌底は攻撃力という点では拳に劣るが、人体に攻撃しても手首を痛めにくいと云うも利点ある
 

・日本武道傳骨法會(にほんぶどうでんこっぽうかい)

古流骨法と呼ばれる日本の民族拳法を源流とした流派

創始者である堀辺正史は、幼い頃から古流骨法を学び

堀辺氏は当初から「実戦で使える武術」を追求し、

他流試合を繰り返しては古流骨法を実戦向きにアレンジし、現在の流派を創設した

当初は近距離状態での打撃技を主体にしていたが、近年盛んになったバーリトゥードに対応すべく

打撃技中心の体系から「押さえ」と呼ばれる組み技中心の体系へと変化を遂げたのである
 

グリ マ

10世紀頃から行なわれていたイギリス最古の格闘技

タイツにランニングを着用し、分厚いパンツを履いてそれで4つに組んで行なうレスリングであった

見た目では柔道・相撲・レスリングを合成させた様な格闘法であると云う
 

サバット(Savate)


ボクス・フランセーズ・サバット(Boxe Francaise Savate)は、

ヨーロッパにある他のキック・ボクシングと同様に古代ギリシャの

パンクラチオンに起源を持つフランス格闘技です。

オリンピックの競技種目でもあったパンクラチオンはルールの無い一対一の戦いで、

キック・パンチ・投げ・固めを使用するいわゆる総合格闘技であった。

競技でのパンクラチオンが衰退すると、このスタイルはストリート・ファイトの世界で継承されていった

17世紀フランスのストリート・ファイトには 2種類に大別される格闘スタイルが存在した

ショーソン・マルセイエーズ(Chausson Marseillais)と呼ばれるキック主体のものと、

サバット(Savate)と呼ばれる掌底(開いた手)とローキック(下腿部への蹴り)による

コンビネーションを使用する物である。

1845年にシャルル・ルクゥ(Charles Lecour)が初めて近代サバットのルールを体系化し、

上記の2 種類のスタイルを長年研究した彼が「ボクス・フランセーズ・サバット」を確立したのだ。

彼はショーソンの強力なハイキックとサバットのローキックを組み合わせ、

更に英国ボクシングとの交流(対抗戦)の中で拳によるパンチ攻撃をも組み入れた

1899年にはMaitre Charlemontがこの競技に関する最初の公式文書を著し、

これが現在採用されているサバットのルールの基礎になっている。

フェンシングに強く影響された彼は、この競技の様々な要素をサバットに取り入れている

特筆すべきは前方への突きを取り入れた事で、往来の戦い方に比べて射程範囲が大きく拡大した

今世紀に入ってサバットは広く学ばれるようになり、

フランス陸軍で訓練の一環として教えられただけでなく、ベルギー、スイス、イタリア

そしてドイツでスクールが開校している。

1924年のフランス・オリンピックではデモンストレーションも行われた

現在、世界中で多くの人々がサバットを学んでおり2年毎に世界大会が開かれている
 

又、本来サバットには投げ・極めの技術やステッキ術(紳士が持つ様な長い棒)が含まれていたが

各々「パリジャン・レスリング」と「ラ・キャン」として独立し、

ボクス・フランセーズ・サバット(拳と足による打撃のみ)を一般的にサバットと呼ぶようになった。

サバットの特徴は靴を履いて戦う事にあり、足首への衝撃を吸収する為

サバット用の靴は足首部分が強化されている。

このため足の甲や爪先によるキックを多用できるので(サバットは基本的に脛は使用しない)

ムエタイ等に比べて広い間合いで戦う事が出来るのだ。また相手のキックを片手でさばく為に、

グローブの手の平の部分が13cmもの厚みを持っている。

因みにサバットのユニフォームのデザインには決りが無い様で、皆カラフルな物を着用している

勿論サバットにもランキング・システムがあり「ブルー・グローブ」から始まって

グリーン・レッド・ホワイト・イエロー・シルバーがありシルバーは更に3段階に分けられている。

JKD創始者・ブルースリーがサバットを熱心に研究し、自流にその技術を取り入れたのは有名である
 

サン ボ(SAMBO)

サンボとは「武器」「持たない」「自己防衛」を意味する3つの

ロシア語「サモザシタ・ビェス・オルジャ」の頭文字を組み合わせた短縮語

関節技を主体とする組技格闘技で柔道と似ているが、源流はユーラシア大陸の民族格闘技である

サンボはユーラシア大陸北部に存在する200種を超える民族格闘技が持つ技術の粋を結集して

編み出され、多種多様な格闘技の長所が取り込まれているだけでなく

最大限の効果を人体に与えるために解剖学的理論も取り入れてある

政府に旧ソビエト連邦の国技として認められたサンボは、国内の民族格闘技だけでなく

日本の柔道からも大きな影響を受けており、その為かコスチュームは上半身が柔道技で

下半身がレスリングスタイルと云う一見奇妙なものと成っている

1902年に講道館で6年間柔道を学んだオプシェロフは帰国後、ロシア国内で柔道の普及に務め

その際サンボの生みの親であるアナトリー・A・ハルラムピエフにもその技術を教えたのだ

ハルラムピエフは柔道を研究し、その技術をサンボに導入。

多彩な投げ技の他に関節技も加え独自の技を編み出したのである

特に足への関節技は特有のもので、それこそがサンボの実践性の高さであるのだろう

また旧ソビエト連邦の格闘技・サンボは、その多彩な関節技から究極の護身術とも云われている。
 

・コマンドサンボ

サンボを軍隊用にアレンジして実戦性を高めた軍用格闘技

コマンドサンボの名称からも解る通り

旧ソビエト連邦の軍隊で使用されていた軍用格闘技で、現在でもロシア軍で使用されている。

軍用格闘技だけあり、相手の関節を破壊する技や直接内臓にダメージを与える技など

非常に危険で殺傷能力の高い技が組み込まれている

日本では、このコマンドサンボを教える道場としてスポーツ会館が設立されている

スポーツ会館は国内道場唯一コマンドサンボを教える場所で、

1993年には同道場内で「コマンドサンボ連盟」が設立された

(勿論スポーツ会館ではスポーツサンボも学ぶ事が出来る)
 

截拳 道(JEET KUNE DO)

李振藩(リージュンファン/BRUCE LEE)が創始した格闘芸術&哲学

打撃技から、投げ・関節技など格闘技の

あらゆるエッセンスを集大成した総合格闘技の元祖とも云える。

1960年初頭に、ブルースリー師祖は葉問師から学んだ詠春拳を筆頭とする修得した

様々な中国武術や格闘技をまとめ、ブルースリー流の意味を込めて自流・振藩功夫を体系立てた

そして、1966年3月に南・北派中国拳術・フェンシング・ボクシング・レスリング・空手

柔道・柔術・テコンドー・フランセーズサバット.....等々

世界各国の武道&武術を研究し昇華させて独自の戦法・截拳道(ジークンドー)を創始した。

「ジー/ 截」は遮る・遮断。「クン/拳」は攻撃・形式。「ドー/道」とは方法・究極の真実。の意味がある

また現在、JKDの総本部であるイノサントアカデミーでは

フィリピノカリ・ムエタイ・シラット・修斗等も教えられているが

JKDというのは、あくまでもジュンファングンフーを基礎として成り立つものであり、

その上で自分に適合する格闘技を取り入れても良いというものであるそうだ。

なので「他の格闘技を取り入れても良い」とされるのは、

現在ではフルインストラクターの証書以降だそうだ。
    

シュ アイ・ジャオ

「角抵(かくてい)・角力(かくりき)・相撲」とも呼ばれ投げ技を主体とした中国最古の格闘技

柔道と同じ着衣格闘技だが、完全な半袖のスポーツ着によって闘われる。

組み手は無くスピード・バランス・体の柔軟性が要求される

また、昭和17年夏に天津で柔道8段牛島辰熊がシュアイジャオの張洪玉に敗れている。
 

・保定シュアイジャオ

漢民族の手によって生み出され素早く動きテクニカルな技を用いて倒す。場所:河北省の保定

・北平シュアイジャオ

満州族の間で開発され動作が比較的緩慢で技より力を重視する。場所:北京

・天津シュアイジャオ

上記二流派の中間で荒々しく剛猛な流派。場所:天津

 (シュアイジャオには以上の三流派が存在する)


シューティング (SHOOTING)

タイガーマスクとして一世を風靡した佐山聡が1985年に創設した格闘技

佐山氏は「打・投・極の三位一体論」と言う考え方を打ち立て、

自らが提示した格闘技理論を実践する場を模索してシューティングを創った。

形式はアマチュア部門とプロ部門に分けられている
 

修斗(SHOOTO)

シューティングの発展形で、スポーツとしての総合格闘技を目指す。

1993年グレイシー柔術がバーリ・トゥードを日本に伝えたのを機に、

シューティングはバーリ・トゥードを基本とするスタイルに方向転換を果した

この方向性をより推進するにあたり、1995年シューティングは「修斗」として生まれ変わった

当初は一部のマニア受けしなかった修斗だが、ここ数年は佐藤ルミナ、桜井マッハ速人、宇野薫

などと言ったスターの出現で人気は急上昇。その上、選手が着こなすオリジナルの衣類が

ストリート系の若者に支持された為、格闘技界で初めてファッションとのリンクに成功した。

また、修斗の試合出場資格は厳しく、クラスA・Bはプロ、Cはアマチュアである

関係組織:K’zファクトリー、GUTSMAN・修斗道場、PUREBRED大宮、CLUB J

      シューティングジム横浜・大阪、パレストラ、USA修斗協会

       総合格闘技木口道場、E-FORCE、格闘結社田中塾、K.O. SHOOTO GYM

      アライブアカデミー、オーストラリア修斗(スパルタンジム)、和術慧舟會、四王塾、RJW
 

シュー トボクシング(SHOOTBOXING)

元キックボクシングアジア太平洋ウェルター級チャンピオン・シーザー武志が、

「立ち技格闘技最強」の理想の元に1985年に創設した「打つ」「蹴る」「投げる」の立ち技格闘技

スタンディングポジションからの投げ技が認められ、

選手達は脚部を守るプロテクターを着用したポップなスタイルのコスチュームで闘う

キックボクシングと異なり、2Rまたは3Rで試合が行われ試合時間は5分に始まり

4分、3分と短くなっていく。試合はノックダウン制だがパンチや蹴り、

投げ技のポイントが綿密に計算されるのでキックボクシングよりも「スポーツ的」といえるだろう。

シーザー氏は選手としては1988年・世界ホーク級チャンピオンの座に輝いていて、

自らが選手として試合をする事により、シュートボクシングの実戦性を確認したシーザー氏は

現役引退後アメリカやヨーロッパの格闘技団体との交流を深め、

遂には「ワールドシュートボクシング協会」を設立。

現在は選手育成に力を注ぎ、村濱武洋選手などの優れた選手を生み出している

又、ムエタイに挑戦する等「立ち技最強」を求め飽くなき挑戦を続けている。
 

柔道 (JU-DO)

江戸末期から19世紀、全国200以上の柔術流派の中から嘉納治五郎が創始した組技系格闘技

彼は起倒流柔術と天神真楊流柔術を中心とし、実戦で活用できる技を新たに考案し

柔術から危険な技や論理的に無理のある技を取り除いて柔道の体系を作り上げた

1885年柔道を敵視する柔術連合と嘉納氏の講道館柔道が警視庁の御膳立ての元、

団体戦を行った。この試合で講道館柔道は2つの引き分けを含む圧勝を納めた結果

以後講道館は警視庁の公認武道となり、柔術は凋落の一途を辿っていった。

柔道の理念を表す言葉は「柔よく剛を制す」「小よく大を制す」だが、

1964年東京オリンピックで正式採用されたのを機に、

軽量級(70kg以下)/中量級(80kg以下)/重量級(80kg超過)/無差別級の4階級に分けられ、

1967年第5会世界選手権大会からは、軽量級(63kg以下)/軽中量級(70kg以下)

中量級(80kg以下)/軽重量級(93kg以下)/重量級(93kg超過)/無差別級の6階級となった。

更に1979 年以降は7階級と無差別級に統一されL・Aオリンピックを最後に無差別級は姿を消した

以上の様に柔道は国際ルールの名目でスポーツ性に重点を置き内容が変更され続けている

ただ、現在でも男子のみ体重無差別での試合が年1回行われており、

71kg以下級の選手が95kg超級の選手から一本を奪い優勝するなど

「柔よく剛を制す」の精神は健在である

(競技化以前は「当て身」と云われる打撃技が存在していた)


・講道館(こうどうかん)

1882年、講道館は嘉納治五郎により創設された。

当初9 人の門人、12畳の道場から始まり、

数年経たぬうちに警視庁武術大会で優秀さを認められ飛躍の第1歩を踏み出した

また講道館柔道は初めてオリンピック正式種目となった日本の格闘技である

当初から「柔よく剛を制す」の精神にのっとり、体重無差別による試合を行って来たが、

1964年にオリンピックの正式種目になったのを機に、体重別の階級で試合が行われる事となる

ただ、現在でも「柔よく剛を制す」から転じた「小よく大を制す」の精神は脈々と受け継がれている
 

・高専柔道(こうせんじゅうどう)

北海道大学・東京大学・京都大学・九州大学等「旧帝国大学」のみに継承されている柔道

柔道を「競技」として位置付けていこうとする嘉納治五郎の講道館柔道の方向性とは反対に、

あくまでも実戦を想定した護身術としての技術を継承しようとした「大日本武徳会」なる団体があった

大日本武徳会は戦前、陸軍と海軍がリードして組織した武道組織だが

そこで学ばれる柔道は初期の講道館のように「絞め・関節技」を重視するより実戦的なものだった

その系譜を引き継いでいるのが高専柔道である
 

柔術 (JU-JITSU)

柔道や合気道の原型となった武道・格闘技。

戦国時代での戦闘は、遠距離は弓矢を用い、接近戦では槍や刀を振り回し、

武器が無くなれば相手に組み付くというものだった。

兵士達が自分の命を守る必要性から剣術や槍術と平行して発達したのが

白兵戦における徒手格闘技、つまりは柔術の始まりであった

柔術は体系の違いから「江戸時代以前に発生した流派」と「江戸時代以後に発生した流派」

とに分ける事ができる。

江戸時代以前(戦国時代)の柔術は戦場の白兵戦技術が原点になっている為、

組技よりも突きや蹴りといった打撃技(当て身)が重要視されている。(柳生心眼流が代表的流派)

対して江戸時代以後の柔術は、抜刀の前に組み伏せる事を至上の目的とされた為、

投げたり関節を決めると云った組み技が主体となっている。(現在では殆どの流派がこれに属する)

全ての柔術は17世紀に入ると急速に形が整えられ、

当時は各々の流派により「体術」「小具足」「捕手」「白打」「柔和」等と呼ばれていた。

以上の様に、柔術は戦国時代を機に生まれた日本独自の武術だといえるだろう。

1885年嘉納治五郎率いる講道館柔道との団体戦に負けて以来、

柔術は凋落の一途を辿るが現在でも多くの柔術は「古武術」として多くの人に学ばれている。

(又、その危険性故に現代では隆盛出来ずに失伝した流派も多い)

 
・為我流派勝新流柔術(いがりゅうはかつしんりゅうじゅうじゅつ)

流祖・江畑杢衛門満真は水戸藩に仕え幼少より武術を好み藤山流・助川又市左ヱ門忠良、

吉岡流・深澤又市胤次、無形流・森山喜衛門長正に学び自ら創意工夫を重ね

為我流を編出し水戸藩を中心に近郷近在において発達隆盛を極めた。

特徴は当身技・蹴・逆技を以って我が身を守る為の技である


・カナディアン柔術

柔道出身者で「サムライクラブ」を主催するモニ・アイザックが設立した独自ルールの柔術


・気楽流柔術(きらくりゅうじゅうじゅつ)

気楽流・無敵流・戸田流・和印可免として相伝されているが、三流を総して気楽流と呼んでいる

気楽流は戸田流兵法を源とし、京流、竹内流等を取り入れ渡辺杢右衛門が創始した

当流の絵目録は上意取・小具足・居詰・腰の廻・上意ぬけ身・極意無当流の六つに分類されている

戦国時代から続く総合武道である為、臨機の闘法が考案されている


・起倒流柔術(野田派・備中派/きとうりゅうじゅうじゅつ)

起倒流柔術の流祖については、福野七郎右衛門・茨木専斎俊房・寺田勘右衛門満英

の3説があり、福野七郎右衛門と茨木専斎俊房が共同で創始したとも伝えられている

だが、文書や文献等から考えると流祖は茨木専斎俊房であるのが妥当であろう

俊房は、柳生宗矩と供に武芸を研究・鍛錬に励み、沢庵禅師から教えを受けたと云う

また起倒流(野田派・備中派)は岡山池田藩士・野田和左衛門に始まる

彼は江戸在勤中に徳川幕府に任えた今堀吉之助に師事し起倒流を学んだ

岡山において起倒流は幕末から大正年代にかけて多いに栄え幾多の実力者を輩出した

起倒流の特徴は、講道館柔道の古式の形に見られる様に

甲冑柔術から発している為投げ技が多い。


・グレイシー柔術

エリオ・グレーシーが前田光世から教授された技術に独自研究を重ね作り上げた柔術

1920年代・当時日本柔道界屈指の名人と言われた前田光世が

ブラジルに入植したのが彼らと柔術の出会いである。

前田氏は柔道普及を目的にアメリカを初め世界中を渡り歩いたが、

皮肉にも「他流試合を禁じる」ていた講道館より破門を言い渡される。

生涯1000 近い他流試合を行い、その殆どに勝利した彼が最後に辿り付いた地がブラジルであった。

前田氏が指導した柔道は現在の「スポーツ柔道」とは大きく異なり、

実践護身術である柔術的な体系であった。

グレイシー兄弟は末弟・エリオを中心に1925年自分達の道場「柔術アカデミー」を設立

その後この柔術は数々の他流試合を経験していき、木村政彦に惜敗した後も

他流試合を積み重ねて遂にあらゆる格闘技に対する対処法を確立するまでに至った

治安の悪いブラジルで「最高の護身術」「最強の組技格闘技」と称される事からもその実戦性が判る

グレイシー柔術が世界中で知られる様になったのは1993年に開催された第1回UFCからで

それに出場したホイス・グレイシーは並居る強豪を次々と撃破して初代王者に輝いたのだ

またホイスの兄ヒクソン・グレーシーに至っては400戦無敗と云われ

実際に現在まで一度も試合で敗れた事は無いのである。


・自剛天真流柔術(じごうてんしんりゅうじゅうじゅつ)

自剛天真流柔術は代々、門外不出の御留流として福岡五十二万石黒田藩に伝えられた

創始者・藤田長助麗憲貞は楊心流・笠原流・良移心当流の3流派の免許皆伝を得た後に

自ら創意工夫を重ねて麗天真流として一流を開いた。その後彼は為勢天真流と称した

9代を継いだ庄林藤原道一の時には流名を自剛天真流へと改めた


・渋川流柔術(しぶかわりゅうじゅうじゅつ)

渋川流柔術は渋川伴五郎により創始された

彼は当初、紀州の関口流・関口八郎左衛門氏業の門で鍛錬を積み、

極意皆伝を許されて一流を興じ渋川流と名号した。

特徴は際限の無い気力・胆力を充分に練り、自分の身に負の無いよ勢法により

己が手足を意のままに動かし、得物を持てば手足の延長となる様に鍛錬すると共に

高人格・高格調を目指して修行する。

また柔の他に棒・薙刀・太刀・小太刀・十手・鎖鎌も鍛錬する


・諸賞流和(しょしょうりゅう やわら)

平安時代に坂上田村麻呂が清水観世音に祈願して夢想の中に和を伝えられたのが夢想観世流で

彼が開祖であると伝えられている。

鎌倉時代に源頼朝が幕府を開いた際に、各地の強豪を集結させて角力会を催し

小兵であった夢想観世流二十七代・毛利宇平太国友が抜群に強く頼朝や周囲は多いに驚いた

以来、諸賞流を名乗ることとなる

諸賞流は目潰し、肘当、前蹴り、手刀、三味線がせを主体として体系立てられている。


・心月夢想柳流柔術(しんげつむそうやなぎりゅうじゅうじゅつ)

備前国伊万里の郷士・岩永源之丞正光が、父・仁左衛門義景に従い

柳生剣術及び柔術を修行し、後に鍋島藩士・古賀重太夫により揚心流柔術を学んだ

宝歴3年3月に各流派の長所を取り入れて自流を創始する


・神道楊心流柔術(しんとうようしんりゅうじゅうじゅつ)

当流派は「揚心古流」と「天神真楊流」の技術を整合し、「直心陰流」の理合を融合止揚したもの

創始者・松岡克之介尚周は旧黒田藩士で幕末期に講武所修行人に選ばれ幕臣にも登用された

松岡克之助は宝蔵院槍術、剣術を北辰一刀流・千葉周作と直心陰流・榊原鍵吉に学び

柔術を天神真楊流・磯正智と揚心古流・戸塚英俊に学び、元治元年に自流を創始した


・誠玉小栗流活殺術(せいぎょくおぐりりゅうかっさつじゅつ)

当て身と関節の極めを中心とした技法で、免許皆伝者に伝書だけが渡されるそうだ


・関口新心流柔術(せきぐちしんしんりゅうじゅうじゅつ)

流祖・関口弥六右衛門氏心は慶長三年(1598年)に今川義元の一族・関口外記氏幸の子として誕生

氏心は幼少より武芸・組討術に秀で、今川氏滅亡後諸国を武者修業、独自の研究により

捕手・組討技術を解明し、「柔らかな力の使い方」を原理に関口新心流を開いた

関口流の柔術・剣術・居合の3つを根幹とし、特に「柔らかな力の使い方」に着目して

これを組討技術に生かし、自ら柔と称しているのだ。


・大東流合気柔術(だいとうりゅうあいきじゅうじゅつ)

大東流合気柔術とは合気道の母体となった柔術で、

会津藩祖・保科正之の時代には殿中護身武芸「御式内」と改定されている

大東流合気柔術は清和天皇末孫・新羅三郎源義光を始祖とし、甲斐武田家に伝承する。

武田信玄他界、武田土佐国次、天正二年弥生二日会津到着、会津国司芦名盛氏に仕え

会津御池の地頭として子孫安住、大東流を継承した。

大東流合気柔術基本技は118ヶ条から成り、技法は居捕・立合半座半立・後捕の4つに大別される

又、代表的な「合気」はこれ等に組み込まれている極意である。


大東流合気柔術はもう1つ存在しており、

当流は源家に代々伝承されてきた兵法の1つで新羅三郎源により集大成され整えられた

会津藩が朝敵となった戊辰戦争や明治維新の為、当流も一旦は世に埋もれたが

武田家子孫で当流の中興の祖・武田惣角がこの技法を継承し全国を巡教した

上記の大東流と当流を統合し体系立てたのも、その武田惣角であった。

武田惣角は150センチにも満たない体にも関わらず、他流試合では無敵を誇り

まさに鬼神の如き強さであったと云われている。

現在では会派ごとに技術&思想が変化しているが、大きく云えば

大東流は直線的に相手を攻めて崩し、技の展開に当て身を入れる部分が多い

そして技の総数は2884手もあり、相手の関節を複雑に絡めて極める固め技が有名である

又、武士護身術を元にしているため大東流合気柔術には、刀攻撃への対処法が多く見られる

敵が剣を振り被った瞬間、即座に踏み込み敵の腕を押さえツボを決める「一本捕り」もその1つ

大東流合気柔術は、人間の体の構造を把握して活きる武道だと言える


・高木流柔術(たかぎりゅうじゅうじゅつ)

奥州白石の家中の士・高木馬之輔重貞が創始した流派

氏神へ参籠する事百日、神示により楊の技に雪を戴けるを受け

それ以来工夫を重ねて柔術を自得する。楊の心を体とするが故に本体楊心高木流と称した


・武田流合気之術(たけだりゅうあいきのじゅつ)

始祖清和源氏新羅三郎義光より伝わる武術であり

甲斐の武田家へ代々受け継がれた業である。


・竹内流柔術(捕手腰廻/たけのうちりゅうじゅうじゅつ)

竹内流は美作国併和郷一ノ瀬城主・竹内中務大輔久盛によって創始された

久盛の子・久勝は父の業を継ぎ武者執行と名付けて出立、全国を遍歴して真剣勝負を流儀に補う

文禄元年、秀次関白から常陸介に任じられ、元和六年春に流儀を後水尾天皇の閲覧に供し

近衛関白から日下捕手開山の御綸旨を賜り紫縄を免された。

竹内流は小太刀や拳、捕縄などを駆使する組討中心の総合武術であるのだ

その神髄は「当流を五体に配り見る時は組討こそは流の心よ」と極意心要歌に詠まれている

また、徒手空拳のの羽手(拳法体術)では敵の急所(つぼ)へ

迅速確実に当身をしてこれに続いて投げや留め技を展開する


・天神真楊流柔術(てんじんしんようりゅうじゅうじゅつ)

天神真楊流柔術は柔道の源流となった柔術の1つで、

磯又右衛門柳関斉源正足(1804〜1863年)が創始し代々宗家へと一子相伝されてきた

三世・磯又右衛門正智から四世・磯又右衛門正信へと合計5名の弟子に受け継がれた。

その内の、戸沢徳三郎に教えを受けたのが合気道創始者・植芝盛平であり、

福田八之助に教えを受けたのが柔道創始者・嘉納治五郎であった。

「柔軟な身体を以って相手の力に逆らわず、変化に応じ虚を突き崩して制する」

を念頭に天神真楊流柔術は考え出されている

勿論、戦国時代の戦闘の為に体系だてられていった武道であるが、

太平の時代になると供に、武士の日常における修練という目的へと変容していき

現在に置いては護身術としてその姿を伝えている。

その技法は技をかけながら急所を攻めたり、関節を極めながら投げたりと

実戦的なものであるが故に修得も難しいと言える


また、伊勢松坂生まれの磯又右衛門源正足(1863年/76歳歿)を流祖とする同名流派がある

講道館柔道創始者・嘉納治五郎はこちも修行し、その奥義を応用して講道館柔道の基礎とした


・長尾流躰術(ながおりゅうたいじゅつ)

流祖は長尾為景入道道長の一族、長尾為光の一子・長尾監物為明である

上杉謙信は好敵手武田信玄と戦ったが、その家臣・馬場美濃守信春の「刺刀の術」に悩まされる

この術は、飛鳥の如く相手の懐に入り込み刺殺する早技で

これを防ぎ敵を圧倒する術の考案を謙信より命じられた

命を受けた為明は、下野国二荒山に篭り華厳の滝に水垢離をして神霊に祈願し

鍛錬の末創案したもので「長尾流」と名付けたのだ。

長尾流躰術は武道のみでなく、茶道・華道・九字・十字・大字・早九字・活などを会得し

免許皆伝を受け、第十一代加賀藩主・前田氏より賜った武門宗師の称と共に

宗家を継ぐ事となっている


・日下捕手開山竹内流(ひのしたとりてかいざんたけのうちりゅう)

竹内流は美作国併和郷一ノ瀬城主・竹内中務大輔久盛が創始。

久盛の子・久勝は元和六年御水尾天皇より、

その子・久吉は寛文三年霊元天王より「日下捕手開山」の称号と

永代、藤一郎の通名の御綸旨を賜り三代にて流儀を完成させた。


・本體楊心流柔術(ほんたいようしんりゅうじゅうじゅつ)

開祖・高木折右衛門重俊は奥州白石藩片倉小十郎の家臣・稲富三左衛門の次男として誕生

右衛門は出羽の国、常陸少将義秀の家臣・武蔵団右衛門に就き

無刀流小太刀及び鏡智流槍術を学び、技を極め奥義に達した。

当時白石藩指南役の父・三衛門が闇討ちに遭い非業の死を遂げてしまう

後に仇を無事報じ、父が常に戒めの言葉であった「楊木は強く、高木は折れるぞよ」

との意に随い、名を楊心流高木折右衛門重俊と名乗った。

特徴は小太刀・柔術・棒術の三本柱を中心に「一眼、二早速、三肝、四力」の修練を積み

「表は柔らかく真綿で包み、その中に百千万萬の勇あるを陰中の陽」の心で相対する。


・マチャド柔術

カーロス・グレーシーJrの母方の従兄弟・マシャード(英語読みでマチャド)兄弟が

LAで開いた柔術。バーリトゥードには否定的で、柔術の普及を第一としている。


・柳生心眼流体術(やぎゅうしんがんりゅうたいじゅつ)

当流体術は柔術・剣術・棒術・長刀術・居合術の総称で、流祖は荒木又右衛門

法祖に柳生十兵衛をいただき、流名の心眼とは禅家の喝の声出さずして

眼光に宿す事である

当流の修行方法は柔術を1ヶ年錬磨し身体動作、即ち立位進展、腰の据え方、手足の調和等

の基本を体得させ後に各武器の修練に入る事を原則としている

七世・大島正照は新徴組に参加し勝海舟・山岡鉄周等と交わり、

八世・星野天智は明治文壇において文芸雑誌「文芸界」の同人として島崎藤村、北村透谷、

樋口一葉等と交わり、明治文化に新風を送り又明治女大学にて島崎藤村と共に教壇に立ちつつ

女子教育の一環として武芸科を創設。藤村の初恋の女性・佐藤輔子も門人帳に名を残している

合気道開祖・植芝盛平も当流派を学び、柔道の祖・嘉納治五郎も七世・大島正照より棒術を学んでる

技法は有型の武技の修行より入り、無型の錬心を工夫し心の自在を目標としている。


・柳心介冑流柔術(りゅうしんかつちゅうりゅうじゅうじゅつ)

当流は江戸末期に磯又右衛門柳関斉源正足より富山登に伝えられ、

諸国武者修業の折に奥州仙台藩を訪れた際に小野派一刀流師範・一丸竜之助に伝授された

その後、一丸兼三郎から小熊良語に伝授され仙台藩宗室伊達家の御留流となった。

身はしなやかで柳の如く、己を守り、人を助け、心身鍛錬の護身の術である事を理念とする


松聲 館武術(しょうせいかんぶじゅつ)

1978年10月、甲野善紀(こうのよしのり /1949年東京生まれ)が武術稽古研究会松聲館を設立。

以来、他流儀や異分野との交流を通して現在では失われた精妙な古伝の術理を探求しつつ

武術の研究を行っている。松聲館武術(しょうせいかんぶじゅつ)では、

胸錯関節、仙腸関節などの上肢や下肢の起点となる支点を「ズラす」事の重要性&有効性を説き

抜刀術・剣術・槍術・薙刀術・杖術・体術などを特有の理論に基いて会得する

また、甲野氏は「武術の動きには、どこまでが基本でどこからが基本ではないとの線は引きがたい」

と語っており、松聲館武術には基本技が存在しないという


少林寺拳法(SHAOLINSI-KENPO)


1947年に開祖・宗道臣(1911〜1980)が創始した打撃・投げ・関節等の技術を持つ日本護身武道

戦時中、宗道臣は中国北部で過ごし各地の中国拳術を学んでいた

1945年戦争終結を満州と旧ソ連の国境で迎えた宋道臣は、翌年日本に帰国

そして、中国で修得した技術に自分の理論を導入して現代に同調した形式に体系立てた

少林寺拳法の名称は、中国河南省「崇山少林寺」に因んで宋道臣が名付けたと云われている

そして1947 年に「日本正統北派少林寺拳法会」が設立される。数年後には、

日本正統北派少林寺拳法会を改め「宗教法人金剛禅総本山少林寺」として全国に浸透していった

更に1957 年には社会体育活動団体としての「全日本少林寺拳法連盟」が発足

6年後には「社会法人日本少林寺拳法連盟」になり日本少林寺を修練する全組織を集結した

少林寺拳法は「剛法」「柔法」「整法(整骨等)」の三法二十五系で成り立っており

剛法とは突きや蹴りの打撃技を指し、柔法は投げ技や絞め・関節技等の組技を云う

実は、少林寺拳法には56種の剛法と、226種の柔法が存在し圧倒的に柔法の方が多彩である

特に柔法で体系立てられている組技は中国の少林拳には見られない技術で、

少林拳とは全く別の武術・武道であるが、互いに頻繁に交流を行っている

又「まず相手が仕掛けてから反撃する」が少林寺拳法の大前提の為、完全な護身術と云える


日本少林寺拳法の大会は型演武で競われる

以前は乱取りも行われていたが、1983年少林寺拳法の基本理念から離れるとの事で禁止になった

日本少林寺拳法での演武は二人一組で行う「組演武」と呼ばれるもので、

内容は剛法と柔法の技を自由に組み合わせて、1分30秒〜2分の間で攻防を行う

又、クラスは一般部と少年部 (小学生以下) の二つに分けられていて

審査の基準は、技が正確さと気合いの入り具合がポイントとなる。


少林寺拳法関係団体は、

少林寺拳法の普及を通じて社会に寄与する「財団法人少林寺拳法連盟 」の他に、

宗道臣が提唱した金剛禅の教えを広め門信徒を教化育成する「 金剛禅総本山少林寺」。

少林寺拳法を通じて個人資質の向上を図り、社会福祉に寄与できる指導的社会人を育成する

「学校法人禅林学園/日本少林寺武道専門学校」。

世界各国での少林寺拳法の普及活動を統括・支援する「少林寺拳法世界連合(WSKO)」がある

因みに少林寺拳法連盟の登録会員は150万人。

又、海外27ヶ国にも普及しWSKOから各地区講習会や4年に一度の国際大会等も開催されている


他にも、宗道臣は「自己確立」「自他共楽」の教えも説いている(以下は彼の言葉)

「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」

「力なき正義は無力なり。正義なき力は暴力なり。」  


シル ム(SSIREUM)

別名・朝鮮相撲と呼ばれテコンドーと並び韓国で最もメジャーな格闘技

日本相撲の様に突き・押し・寄りが認められていない為、

終始マワシを引き合い投げの応酬により相手を倒すのがシルムの基本的な戦法である

右大腿部上にもマワシがあり、それを掴む事によって豪快な投げ技が決まる

試合場にはくるぶしが隠れるほど多くの砂が敷き詰められている。


端午(ダンオ)や秋夕(チュソク)のような韓国固有の祝祭日に民俗競技として行われている

シルムの起源は三国時代に遡る。シルムの歴史は古く、現在のシルムと似た形のシルムは

高句麗時代の古墳角低塚の主室の壁画に既にその原型が描かれている事から見ても、

三国時代以前から行われ伝えられた事が推測できる。

しかしシルムについての最初の記録は、朝鮮時代の世宗(セジョン)王の代に書かれた

「高麗史(コリョサ)」にある。このような民俗競技が一つのスポーツとして現代に大衆化されたのは、

1982年4月民俗シルム委員会が発足されてからだ。

一般的なシルムの競技方式は、長さ11メートルの四方に木で壇を作り、

直径7メートルの円形の土俵の上で両選手がサッパ(帯腰)と右足の太股にかけて廻し、

左手で腰のサッパを、右手で太股のサッパをお互いが取り組み合ってから始める。

勝負は力と技で相手の足の裏意外の部分を地面につけさせると勝ちが決まる。

試合時間は5分間の3番勝負で決勝戦は5番勝負である


手や足で相手を叩いたり蹴ったりしない韓国・シルムに似た格闘技は世界各地にも存在する

その中でも日本の「相撲」・モンゴルの「ボフ」・旧ソ連の「サンボ」・スペインの「ルチャカナリア」

トルコの「カラクジャク」「ヤールグレッシュ」・スイスの「ダスシュインゲン」等が代表的だ

それ意外にも、アフリカや南米などで韓国・シルムと似た様な民俗競技があるといわれている。


シルムの重要技術

1)ジャプチギ

攻撃者の重心を右足におき、相手の腰サッパを攻撃者の身体近くに引き寄せ、

相手の身体を密着すると同時に太股サッパを握った左手を下から捻って、

腰サッパを握った右手を時計と反対方向に回し押し胸と右肩で相手を瞬間的に捻って倒す技

2)アンダリコルギ

攻撃者は左足を相手の右足の前に進ませた後、

腰サッパを自分の身体の方に引っ張って身体を合わせながら、

右足で相手の左足内側から外へかけるようにして肩を押し出し相手を倒す技

3)ドルベジギ

ドルベジギの技術は2つに分けて考えられる。

1つは右膝を使って相手を引き上げる瞬間相手の膝を蹴飛ばす方法で、

もう1 つは相手を引き上げ回りながら、膝を蹴飛ばして倒す方法である


新体 道(SHINTAIDO)

人々の体の自然性を豊かに呼び戻し、心を開放し、個性を育てる為の全く新しい体技で

新体道棒術・剣術・柔術などが存在する。

新体道は現代人にとっての体技を追求し、健康の増幅や豊かな精神性等の育成していく反面

その動きを応用し、武道としても十分活用出来る様に体系立てられている。

創始者・青木宏之(あおきひろゆき/1936年横浜市生まれ)は、

1965年に新体技創造のためのプロジェクトチーム「楽天会」を結成

70年には、新体道がほぼ完成し、総合武道連盟結成。新宿に事務所を設立した

77年〜78年にはブラジル・サンパウロにて、

青木氏により棒術(投げ技50本を含む)、及び養気系稽古が大成された。

1980年第一回新体道国際大会(於:米サンフランシスコ)が開催される

1982年第二回新体道国際大会(於:イギリス)が開催

1984年第三回新体道国際大会(於:フランス)が開催。以下隔年で米・英・仏にて開催している

同年に、新体道協会本部小石川道場がオープン

1987年には、国際新体道連盟(ISF)が発足された。

その後も数多く普及活動を続け現在に至っている


相撲 (SUMO)

立ち技に置いてあらゆる方法を駆使される日本の国技

日本の国技である相撲が初めて姿を現したのは、1500年程前だと言われており

当初は儀式色の強いものだったが、鎌倉時代に入ると宮廷や国府の衛士を選抜する為の手段や

武士育成の手段として活用され初め、実戦用の武術へと姿を変えていった。

だが、戦国時代後期に移ると鉄砲等の武器の登場によって距離を置いての戦闘が主流となった

その結果、実戦での相撲の存在意義は次第に薄くなる

後に相撲を職業とする力士の登場により、興業としての相撲が誕生して現在に至る


ズルハネ


イラン武術。ペルシャ語で力を「ズル」、家の事を「ハネ」という

数10キロもある鉄輪を軽々しく扱い数10キロのこん棒を自由自在に操るパワーと技術。

又、その技術を習得する場所や道場の事も「ズルハネ」と言う

イランでは老若を問わず、「力の家」たる「ズルハネ」で「ズルハネ」を楽しむ。


掣圏 道(せいけんどう/SEIKEN-DO)

掣圏道は格闘技術の余分なものを削ぎ落とし、市街地での格闘性能を追求している

創始者は初代タイガーマスクや修斗創始者として有名な佐山聡である

「掣」とは相手の行動をお抑えて制する、と云う意味で敵を組み伏せ動けなくさせる事を指す。

「圏」とは範囲を指し、格闘技では各攻撃の距離を意味しており

あらゆる攻防は圏から成り立つという佐山格闘理論の基本である。

「掣圏」とは打撃・組み・寝ワザ等、総ての格闘圏内を掣し組み伏せる事を意味する

「道」掣圏道は武道により、規律と信義を養う事を目的としている


端的に言えば修斗からスポーツ性を排除したもので

修斗はスポーツとしては最高クラスの物だが、実戦では不要な技術も多い

そう言った実戦に必要無い物を修斗から省いた物が掣圏道なのだ。

掣圏道ではまず立ち技を主軸にしており、又グラウンドの場合は絶対上にならなければいけない。

佐山氏の考えとして、寝技は素人でも3ヶ月やれば強くなる...ので寝技中心にしてはいけない

「Be ABOVE(上になれ)」が掣圏道の絶対の考えであるそうだ

掣圏道では現代風の「スーツ型道着」を着用して立ち技から相手制圧までの技術追求をする

特徴的なのがグラウンド時の最高ポジション「ニープレス」の多用である

1対1であればマウントポジションが最高なのだが相手が複数の場合自分が固定されている為

次の動作に移れず相手の仲間から攻撃を受けてしまい理想の状態とは言えない。

その為に実戦理想である相手を下にしてお腹に片ヒザをのせる状態を使用する

これが「ニープレス」或いは「ニー・オン・ザ・ベリー(お腹の上にヒザをのせる)」の状態であり

修斗の「極」より、実戦では「掣」が重要視されてくるのだ

規律と礼儀に置いては、

武道精神である自己を押さえて忍ぶ「押忍(オス)」を、最上の方法として敬礼で表す


また、UFO 時代の佐山聡氏が提唱した新格闘スタイルに

立ち技中心の「α(アルファ)」、寝技中心の「Ω(オメガ)」があるが

掣圏道は「α」を発展させたものと云われている。


截 空道(せっくうどう)

創始者・平原伸泰が幼小期からの十数種類の武道経験を生かし、生まれたのが截空道である

日本の武道を、新たな形式で世界に広め人種を問わず門戸を開く事に主を置いている

平原氏は1970年8月9日生まれ兵庫県出身で、父の武道教育のもとに5歳より、

YMCA体操スクールに通い、小学1年より剣道、小学2年より6年まで剛柔流倍昭会で修行、

1981年、剛柔流全日本選手権大会でベスト 5入りし本格的な空手の道を目指す事となった。

中学時代は柔道部の副部長をつとめ、八幡市長杯柔道大会準優勝、京都山科地方大会ベスト4

学校で柔道修行する傍ら、京都の塚原ボクシングジムに通いパンチに磨きをかけた。

高校は、京都少林寺高等専修学校にいき金剛禅少林寺拳法の修行に専念。

18歳からは国際空手連盟極真会に入門し、大山倍達の空手を修行する。

また新国際空手道連盟芦原会館にも入門。極真空手で準指導員をする傍ら、

国際大山空手道連盟に入会、1990年に日本代表メンバーでアメリカ遠征しUSチャンプと共に練習。

その後、日本でウィリーウィリアムスや正道会館佐竹などの、トップメンバーと合同合宿

1990年10月空手雑誌『フルコンタクトカラテ』誌の特集になり極真会館より二重登録の為、除名処分

その後、自らの理想を追求すべく截空道を創始。自由な視点をもち、型にとらわれない、

あらゆる武道のよい所を吸収・アレンジし、どんなジャンルの格闘技とも対応できるよう研究している。

現在、シュートファイティング・グローブカラテ・キックボクシング・コンバットレスリングなどの大会に、

選手を送り出している。


躰道 (たいどう/TAIDO)

躰道は、1963年に玄制流空手創始者でもある最高師範・祝嶺正献が、

唐手(トウチャー)と玄制流空手を母体にその枠を越えて新たに創始した新武道である。

玄制流も空手の中ではアクロバチックな流派であるが、

躰道は更に3次元的な体軸の動きが研究され、「旋体・運体・変体・捻体・転体」の5種類の技と

運足(ウンソク)・運身(ウンシン)を駆使して構成される技の数々は、見る者を驚嘆させる凄まじさがある。

躰道の独自性は、体軸(脊椎部)を変化させ攻撃を繰り出す所に特徴があり

これにより躰道独自の「地面に伏せてからの攻撃」等が可能になる

また単に武道技術だけで無く、呼吸整体法などの健康法的な面も持ち合わせている


「躰道の歴史」

昭和20 年第二次世界大戦の末期、

玄制流空手最高師範祝嶺制献(シュクミネセイケン)が特攻隊員として

沖縄近海で作戦中の敵艦に攻撃の内命を受け、肉迫必中術策を懸命に思案。

その際に「旋・運・変・念・転」の運動法則を基にした動態に発想をえて、

三次元の運動空間に適応できる実技を編み出した。

昭和21 年・大分県南海部群明治村の山中、

23年・沖縄県国頭群久志村の海上にある無人島で運技・変技・転技の一部を創作して

24年・静岡県伊東市において実技を初めて公開。

28年から約10年間東京を中心に大学・自衛隊・会社団体など、

120余の関係道場で実験的に指導する中で、新武道を創造する為の基礎的な内容を整え、

37年に「旋技・捻技」を完成し、各技をまとめて「躰道」と称するようになった。

昭和38年「躰道」として「旋・運・変・捻・転」の実技を科学的に解明するために、

「人間の存在」「社会の状態」「宇宙の処理」等と、武道における公理の根源要素、

法形完成の思想との相関関係を基に原理化をはかる。

昭和40年に、動向<相対の原理>制御<相剋の原理>体気<呼吸の方法>

法形<タイ・制・玄>経絡<陰陽の調整>等と、

「物理像」「生理像」「心理像」「情緒像」を一元的に体系化して「躰道」を集大成した。


・躰道の基本技

旋技・・・体軸を中心とし体を旋回させ技を出す、独楽状の動き

運技・・・体軸を左右上下に移動させ技を出す、昇降状の動き

変技・・・体軸を垂直に倒し技を出す、倒木状の動き

捻技・・・倒した体軸を中心に体をひねり技を出す、螺旋上の動き

転技・・・体全体を丸めころがり技を出す、球転状の動き


中国 武術(KUNG-FU)

中国では後漢(25〜220年)の班固が著した「漢書・芸文志」の中の兵書目録に

「剣道三十五篇」と並んで「手搏六篇」の名がみられる。

手搏とは「手で搏(打)つ(法)」つまり拳法の別名であり、当時既に拳術概念が存在していたのだ。

又、拳法の発生は更に古く周代(前1020〜前249年)の書「周礼」「詩経」「管子」等に、

「角力・拳・拳男」等の名称で拳法の存在が記載されている。

やがて時は流れ春秋戦国時代、中国では大きな戦乱が繰り返し続いていた。

その際に様々な武術が勃興したのだ。それ等が改めて注目されたのは19世紀の清朝時代

その技術は単なる徒手格闘技だけでなく、常に武器術も含まれていた。

門派の分類は地域的なもので、黄河を挟む北の拳法を「北派」、南の拳法を「南派」と呼ぶ。

技術差異で分類すると、「長拳(突き蹴り動作が大きく遠攻戦)」「短打(体部位を駆使した接近戦)」

(例:長拳=少林拳/短打=八極拳・蟷螂拳・詠春拳etc)

以上で幾つか該当する鍛錬した筋骨を駆使する拳法の殆どを「外家拳」と呼び、

それ等に該当しない肉体内の内剄を養う拳法を「内家拳」と呼ぶ。(例:太極拳・形意拳etc)

また北派を「内家拳」・南派を「外家拳」と分類して呼ぶ事もある。


北派拳術(内家拳)


内家拳とは「気」を養うなどの内面的な鍛錬を重視するものである


・太極拳(陳式/楊式/呉式/武式/孫式/鄭式/双辺式etc)

太極拳は健康維持に大きな効果があり、

呼吸を調整する事によって心体両面を鍛錬し病気になり難い体質へと変化させる効果があると云う

1956年には「中国国家体育運動教員会」の承認により「簡化24式太極拳」が誕生。

これは、高難度の太極拳を修得し易い様24の基本的動作を厳選して新たに体系立てたものである

この簡化24式太極拳の誕生により太極拳は世界中に瞬く間に浸透していった。


1.陳式太極拳(ちんしきたいきょくけん)

創始者:陳王廷(通説)

発祥地:河南省温県陳家溝

陳式太極拳は河南省温県陳家溝に伝わる武術で、

太極拳の源流とされ、太極拳は「陳式太極拳」から始まったとも云われている。

北派内家拳に分類され「剄力」という体内部から湧く爆発的な全身の力を最大武器とする拳法。

特徴としては姿勢が低く「発勁」動作が数多くあり豪快な武術といえる

又、ゆっくりとした動作は剄力を養う為の鍛錬であり、

剄力を「単鞭」と呼ばれる独特の打撃法によって生かすのも、太極拳の武術面での特徴

陳式太極拳の有名人物は中で丁傑老師などであろう

老師は現在でも名古屋で陳式は勿論、子供達に長拳を指導するなど活躍されている


2.簡化太極拳(かんかたいきょくけん)

簡化太極拳は太極拳を始めると一番最初に出会う太極拳であろう。

簡化太極拳は一般的では健康太極拳とも呼ばれる事からも、

武術的な面より健康維持の為に行う人が多い


3.楊式太極拳(ようしきたいきょくけん)

創始者:楊露禅(ようろぜん/1799〜1872年)

楊式太極拳は「簡化太極拳」の元になった太極拳として有名で、

一般的な太極拳のイメージに一番近いと思われる。

楊式太極拳は、河北省永年人の楊露禅が陳式の故郷・陳家溝で

陳長興より「陳式太極拳」を学んだ後、工夫を凝らし改変したもので

「楊式太極拳」が出来た後に「陳式太極拳」も「太極拳」を名乗るようになったという説もある

楊式太極拳の伝説的名人は傳鐘文老師である


4.呉式太極拳(ごしきたいきょくけん)

創始者:全祐(ぜんゆう/1834〜1902年)

楊式太極拳創始者である楊露禅の次男・楊班候に学んだ全祐が創出し、

河北省大興人の息子・呉鑑泉が「楊式太極拳」を学んだ後「呉式太極拳」を完成させた

一般的な太極拳の特徴として姿勢が真っ直ぐで、上体が傾かないのが普通であるが

「呉式太極拳」の特徴は拳を打ち出した時に上体を傾け押し出す様な姿勢になるのだ

また、他の太極拳には見られない緻密な足捌きが「呉式太極拳」の重要なポイントといえる。


5.武式太極拳(ぶしきたいきょくけん)

創始者:武禹襄(ぶうしょう/1812〜1880年)

北京で「陳式太極拳」から発展した太極拳。


6.孫式太極拳(そんしきたいきょくけん)

河北省完県人の孫祿堂が、陳式太極拳を発展させた「武式太極拳」を学んだ後に

既に修得していた「形意拳」「八卦掌」を複合させて自流「孫式太極拳」を完成させた。

その動作は円滑スムーズで、前進する時には跟歩をして後退する時には撤歩する

又、開合動作を多く含み「開合活歩太極拳」とも呼ばれている。


7.かく式太極拳(かくしきたいきょくけん)

創始者:かく為真(かくいしん/1849〜1920年)

武式太極拳の三代目・かく為真が普及させたものが「かく式太極拳」

技法は、姿勢の高い小架式である。


7.総合太極拳(そうごうたいきょくけん)

総合太極拳は1990年・北京で開催されたアジアオリンピック正式種目になった

「武術」の一種目として1989年「中国武術協会・中国武術研究院」が制定した比較的新しい太極拳

総合の名称通り「楊式太極拳」をベースに「陳式太極拳」「孫式太極拳」「呉式太極拳」

の以上四種類が組み合わされており、競技用太極拳として大勢の人々が練習している。


8.太極推手(たいきょくすいしゅ)

太極推手は太極拳練習で欠かす事が出来ない2人で行う訓練法の一つ

又、中国では太極推手の競技会も開かれている。

代表的なものには「平円輪推手」「立円輪推手」「八字輪推手」「四正推手」等がある。

推手で重要なのは相手の力の方向や強さを腕の一部で感じとる「聴勁」を理解する事で、

力まかせの押し合いのような推手では理解をする事は難しいであろう


9.陳家太極拳(ちんけたいきょくけん)


・心意拳(しんいけん)

創始者:姫際可(きさいか/字 龍峰/明万歴1591〜清康煕初年1677年/伝説)

発祥地:山西省

清代、中国山西省で姫際可が槍術の理を以って考案した武術

一説には、心意拳創始者は南宗初期の「抗金之英雄」こと岳飛(1103〜1142)が創始し

岳家軍の宿将の一人である牛皐に伝えられた、とある。

だが、この説は中国武術史研究者達によって既に否定されている。

岳飛は槍術に優れていた為、形意拳の勁道の多くが槍術と共通する事から結び付けられたのだろう

歴史的には無名の姫際可は、伝によると彼は明末清初にて

反清復明を狙って少林寺に集結した武人の一人であり、大槍を得意としていた

又、姫際可の拳術は「形意拳」「戴氏・回族心意六合拳」「心意把」等の源流武術とも言われている


・形意拳(山西派/河北派/尚氏:けいいけん)

創始者:姫際可(きさいか/1591〜1677年/字 龍峰/伝説)

     李洛能(1808?〜1890年/名 羽飛/字 能然)

発祥地:山西省(清代)

清代、中国山西省で姫際可が槍術の理を以って考案した武術が源流と云われている。

山西省太谷の李洛能は戴氏心意拳を文勲(2代)・郭維漢(3代)から学び、

多くの改変・独自の解釈を加えて形意拳を創始。それを山西・河北省に広く伝え、各地に普及する

現在の形意拳では、大きく分類して「山西派・河北派・河南派」に分かれ

山西派は形意拳古伝の形として近年注目を集めている。

形意拳の主要中心となるのは、「五行説(金・水・木・火・土の五行で天地構成されてるという思想)」

によって理論付けられている「五行拳」、劈拳(金行/掌打ち下ろし)・鑚拳(水行/拳を上方へ突く)

崩拳(木行/拳で直突き)・砲拳(火行/片手を上方にハネ上げ同時にもう一方で直突き)

横拳(土行/拳を側面に打ち出す)等の五種である。

更に形意拳には五行拳の他、十二種類の象形動作を含んだ「十二形拳」があるが、

伝承者により異なる場合があり修行者は自己に適合したものを練習してる場合が多い。

また、器械武術には「刀・剣・槍・棍」等がある。


・八卦掌(伊式/程式:はっけしょう)

創始者:董海川(とうかいせん)

発祥地:北京(清代)

千差万別な技法と、縦横無尽な歩法を用いるのが特徴。

中国武術の中で最高の拳理(拳術の理論)を持っているとされるのが「八卦掌」である

円周上を歩行しながらの練習が特徴で、手技も名前通り「拳」ではなく「掌」を使用する。

八卦掌の原則は、滾(コン/手を廻し敵の気を反らす)・鑚(サン/突き出す)・争(ソウ/更にひと押し)

裏(カ/ 腕を内側にねじって巻き込む)の四手法と、

起(足を浮かす)・落(足を落とす)・擺(足を外側に開く)・扣(足を内側に向ける)の四歩行

更に寧(ねじる)・旋(旋回する)・走(移動する)・転(回転する)の四身法であり、

この十二の原則に基いて軽妙で縦横無尽の複雑な動きを行うのである。

その事から「八卦掌」は身法が自在で変化に富み 「天を泳ぐ龍のように」とまで呼ばれている

又、八卦掌の名称由来は占術の「八卦」から来ていると云う。

八卦掌の器械は「八卦剣」「子母鴛鴦鉞」や「八卦大刀・龍形刀」(長さ140cm)が有名


・陰陽八盤掌(いんようはちばんしょう)  

発祥地:江南

一説では八卦掌創始者・董海川は、江南にてこの拳法を学んだのち八卦掌を創始したといわれる。

それほど陰陽八盤掌の技法・歩法は八卦掌と大変よく似ている。

また、董海川の弟子・劉鳳珍が八卦掌を学んだ後に改名したものとも云われている。


・翻子拳(ほんしけん)

発祥地:河北省のレイ県・高陽県等を中心

別  名:「八閃番」「翻拳」

翻子拳の歴史は古く、明朝の名将軍・戚継光が著した「紀效新書」中の

「拳法三十二勢図」に記載されている「旗鼓勢」「埋伏勢」等の技法は

現在でも翻子拳の中に保存されている。

翻子拳の特徴は俗間に「双拳の密なること雨の如く、脆快なること一挂鞭」と表現されている。

つまり双拳を雨アラレの如く密(隙間無く)に打ち出し、脆快(てきぱきした)な様子は

一挂鞭(中国で祝祭事に使用される長い爆竹)が爆発し続ける様に絶え間無く打ち続けるのだ。


・八極拳(呉家/張家/金家/丁家/強家/曹家/李家/霍家:はっきょ くけん)

創始者:呉鐘(ごしょう)

発祥地:河北省滄州孟村(滄県東南郷)

別  名:「開拳」「開門拳」

震脚・短打が特徴で接近戦が得意な武術。八極拳の有名な器械武術には槍がある

八極の発祥地は河北省滄県東南郷といわれ、その地において八極は「巴子拳」と呼ばれた。

巴子拳の「巴子」とは、「農耕用具の鍬(クワ)」の事であり八極に多く用いられる、

手型が鍬に似ていることから、この名前がついた。

だが、巴子拳という名称は、粗にして俗であるが故に呉鐘が八極拳と改称した。

(因みに巴子と八極は、中国語では発音はかなり近い)

呉鐘が何故八極という文字を採用したのかは、明かでは無いが

ただ、「四方八方に極遠にまで爆発させる拳」というのが一般的な解釈である。

現在では、最も正統(源流)といわれているのは「呉氏八極門」である。

呉鐘が「八極拳」と拳名を名付けて以来、ほぼ原型の型がそのまま伝えられているのが

「孟村呉家」の八極だ。ここから、あらゆる流派に分派されていく事となった。

その始まりとなったのは、呉鐘の娘・呉栄が嫁ぎ先に伝えた八極拳だ

これは、後の「羅瞳八極」となるもので、本来の呉氏の「真伝」は伝えられなかった。

呉栄は娘なのでいずれは嫁いでしまう。だから呉鐘は敢えて娘に真伝を伝えなかったのだ。

しかし、呉栄によってもたらされた八極は「羅瞳」にて真伝は伝わらねど独自の発展をとげた。

やがて史上最強と謳われた李書文を生み出す事となった。


又、八極拳の発祥にはもう一説ある。(以下の通り)

明朝の名将軍・戚継光が著した「紀效新書」にて、既に「巴子拳棍」の名が覗える通り

「巴子拳棍」が既に明代の頃に有名であった事がわかる。

余談だが蘇c彰師範曰く、八極の勁道には棍の術理は合わないという。

しかし、ここには巴子拳棍の名がみられる。

因みに呉氏系統では、「八極短棍」など棍の套路がいくつか存在している。

この事は、現在の呉氏と李氏の勁道は、全く別物と考えねばならないだろうという事である。

さて、一般的では呉鐘を鼻祖・開祖を癩としているが、丁発祥こそが開祖ではなかろうか、

と、いうのが最近の(ここ10年くらいの)通説である。

拳譜によれば、丁発祥は1615年孟村鎮に生まれた。彼は回族の人で字を瑞羽と言った。

発祥が成人する頃、各地で盗賊が蜂起し世は乱ていたので、発祥は家族を守る為に武術を志した。

ある夏の日、炎天下の中、発祥が瓜畑で懸命に練習する姿を、一人の道士が見ていた。

その道士は、発祥の功夫が非凡であるのを見抜き弟子にした。

その道士は弾腿を教え、そして八極を教えた。

三年間の刻苦鍛錬の末、発祥はその絶技をことごとく会得したのだ

道士は、発祥の元を去る際に初めて自分は〇〇道人であると名乗った。(〇〇=汚らしいの意)

これは呉鐘が、「癩」と名乗る道士から八極拳を学んだエピソードとよく似ている。

丁家に伝わる系図を見ると、一世は始祖の〇〇道人(黄絶道長)、二世が丁発祥となり

三世つまり丁発祥の弟子は2人おり、1人は張士成(懶披裟)、もう1人は達磨叔王(神力王)とある。

そして四世に初めて張士成の弟子として呉鐘の名が出てくる。

「滄県誌」の道士・癩、「呉氏拳譜」の遊方僧・癩魁元、

「丁氏拳譜」の張士成(懶披裟)は明かに同一人物を指している。

しかし、この丁発祥説も所詮数ある中のひとつにすぎず確証は無いのである。


・劈掛掌(ひかしょう)

発祥地:河北省滄州

劈掛掌の特徴はその名の如く「劈掌(小指側々面を用いた手刀の如く打つ)」と、

「掛掌(人差指側の側面を用いて背刀打ちの様に下から打つ)」の両技法を主体として

両手を風車の様に目まぐるしく廻し、雨アラレの如く攻撃する

腰を支点にして上体を左右にふり両手を振り回すようにして、連続的に攻撃する。


・螳螂拳(七星/梅花/六合/八歩/秘門/光板:とうろうけん)

創始者:王朗(伝説)

発祥地:山東省(清代)

カマキリの動作を象形したこの武術は、

清代、王朗が少林寺で学んだ拳法に加え北派十八門派を集大成して創始したと伝えられている。

(名称の由来はカマキリが蝉を捕らえる所にヒントを得た事から付けられた)

螳螂門は大別して、硬螳螂(七星・秘門・梅花)/軟螳螂(六合)/それ等中間の八歩螳螂拳がある。

・七星派/元祖の螳螂拳に、一番近いといわれる。

・秘門派/七星派の動作を小さく、細かくおこなう。

・梅花派/独自の梅花手法という動作を持つ。

・六合派/大きく、柔らかい動作をおこなう。

・八歩派/蟷螂拳と八極拳を融合させたもの。

上の八歩螳螂拳は伝承者が少なく、硬螳螂の七星螳螂拳が最も多く普及されている。

他には秘門派から派生した、亜流・分派の尹家蟷螂拳などが存在する

因みに尹家蟷螂門は中国武術のみならずテコンドー、ムエタイ等や上段・飛び蹴り技等も使う門派。

「螳螂拳」は「螳螂手」といわれる独特の手形を使う事が特徴で、

器械套路には「螳螂剣」や「螳螂双鈎」などがある。

その「螳螂双鈎」では「鈎」を両手で持ちカマキリの鎌の様に振る大変面白い套路


・秘宗拳(ひそうけん)

創始者:盧俊義(ろしゅんぎ/伝説/宋代)  

別  名:燕春拳・迷踪拳・迷蹤芸

特徴は複雑な歩法を用い、敏捷な動きで急回転したり姿勢の高低を急激に変化させたりする。


・孫ビン拳(そんびんけん)

創始者:孫ビン

発祥地:山東省

長い袖を振り回し、目をくらませ即座に攻撃する所から長袖拳ともいわれる。


・弾腿(だんたい)    

発祥地:山東・河北・河南等を中心

別  名:譚腿・潭腿

動作が単純明快で実用的なので、他の拳法を始める前にこの拳法を練習する場合が多い


・査拳(さけん)      

発祥地:山東省冠県

山東省冠県を中心に、回教徒の間で行われていた。

多様な蹴り技と手技を組み合わせた十路の型があり、各々に対練の型がある。

又この拳法は変化に富み、優美なことから女子の学習者が多い


・戳脚(九番御歩鴛鴦勾挂連環懸空戳脚/たくきゃく)

発祥地:中国北方

別  名:九番鴛鴦脚・九枝子・[走尚]子腿

套路は短く、学びやすく練習し易い事からスピード・柔軟性・機敏性を養うのに適している。

手と足を合わせて用い腿法が機敏で変化に富んでいるのが特徴。


戳脚とは「九番御歩鴛鴦勾挂連環懸空戳脚」の略称。

戳脚の套路は「[走尚]子」と称し1つの套路を「一[走尚]」と言い、

戳脚を練習する事を[足易][走尚]子と称す。

「九番」とは戳脚の套路が「文」「武」と各九[走尚]に分かれている事を指し、

その腿法は一腿変多腿、九九八十一もの腿法に変化する事が可能であり

その手法は一手変多手、手法と腿法が結合し多種の攻撃方法に変化する。

この外に古代陰陽の説法に基き、奇数を陽、偶数を陰と為し

「九」は陽数の中で最も大きい者で「極陽数」と称される。なので戳脚は「九」を以って名称にした。

「鴛鴦」はその陰陽相済の意味から来ており、陰陽という古代の素朴な「弁証唯物主義思想」を

用い各方法や姿勢動作間の互いに助け合い、相克相生(補完し合い互いに生み出し)、

剛柔相済(剛柔が助け合い)、内外協調(内と外が調和し)、

対立統一(対立が統一する)という関係を解釈した。

例えると戳脚の套路は「文」「武」に分かれるが「文」は陰、「武」は陽である

手法の中にもまた陰手(掌が下を向く)、陽手(掌が上を向く)が有る。

招式には左が有り、右が有り、左右が互いに交換する。姿勢には高い低いが有る等々

「御歩」は戳脚の腿法、歩法の運用を指す。「勾挂連環」は戳脚の各技法或いは攻撃、

或いは防御が立て続けに連なり、途切れない事を形容している。

「懸空」は戳脚が多く虚歩を取り拳脚が一緒に始まり、手が率いて脚を発し、

動作中において片方の足がいつも上がっている事を指している。


鴛鴦脚は戳脚の技の一つで、その動作の形が鴛鴦に似ている事からこの名がついている。 

その前に出した掌は鴛鴦鳥の頭にある羽冠で、後ろに蹴りあげた足は鴛鴦鳥の上に翹った

尻尾によく似ており、戳脚の中おいて独特な特色を備えた代表的な動作と成っている。 

従って「鴛鴦脚」は又、戳脚の別名にもなっている。

 元末明初の書物「水滸伝」第29回には、武松が酒に酔った状態で

「玉環歩鴛鴦脚」の一手を用い蒋門神を打ち負かす様子が生き生きと詳細に描写されている。

名前が今の戳脚の「玉環歩鴛鴦脚」と同じだけでなく、

その技撃動作の過程までもが戳脚の「玉環歩鴛鴦脚」と基本的に同じである。

この他に第17回「花和尚単打二龍山」で魯知深が脚を用いて[登邑]龍を「点翻」する様子が

描写されている。「点」は戳脚腿法の中において特有の用語であり、つま先で攻撃する事を指す。

実践こそ認識の唯一の源である。「水滸伝」の作者が生活していた頃の時代には、戳脚の

幾らかの内容は既に存在してる事が見て取れ、従ってその歴史は元末明初まで遡る事が出来る

文武各九[走尚]を有し、81種の腿法を内含した”戳脚拳術”の正式な形成は19世紀30年代で、

即ち清朝道光年の時期であり、今を隔たる事150余年前である。

冀(河北省)魯(山東省)豫(河南省)の接合地区で勃発した天理教農民武装蜂起が

清朝の中央政府によって鎮圧された後、その指導者の一人・馮克善(別名:克敏・凱克・河南人)と

その仲間である楊景、唐有義は献県で捕まるが、脱獄。

その後少林寺の行脚僧に変装し河北省饒陽一帯に隠匿した。

段老緒の接待を経て、馮ら三人は前後して饒陽県、深県、蠡県、固安県の幾つかの村落で

技芸を教える事20余年を過ごす。

馮克善は饒陽では趙[火山]章と名を変え、門人は趙老[火山]と尊称した。 

彼らはそれぞれの村でそれぞれ異なる拳術を教授したと云う

  饒陽県、深県で七〜八年間に授けた拳は「華拳十二路」「八翻手八[走尚]」「八[走尚]金剛架」

「金剛錘八[走尚]」「二郎拳」「[口那]叱拳(玉環歩鴛鴦脚に含)「九枝子(即ち戳脚)」等である。

馮克善は陽景、唐有義の助力のもと長期に渡る教学の実践を経て、

元来の「八[走尚]金剛架」「八[走尚]金剛錘」「六合根」等の初級套路の基礎上に

絶えず豊富に完備していき、最後に後生の人に「北腿之傑」と誉れ高い戳脚を編み出した。

1820年以後、段老緒は馮克善等三人を蠡県趙鍛庄の劉観瀾の父に紹介した。 

劉観瀾の父は息子に拳技を学ばせる為に馮ら三人を家にとどめ専ら武術を教えてもらう事十余年。

この時馮克善は更に名を馮凱克、字を「克敏」としている。 

馮・楊・唐は武芸を劉観瀾(号は老観)及びその兄攀貴(号は老攀)、

その弟・劉桂[声+殳/香](又の名を俊傑、号は老俊、清朝光緒初年の武芸好授五品武職に基づく)

それから本県の魏昌義・魏老方・高慶天らの人々に授けた。

その間、馮克善は戳脚を伝え楊景は太極十三形を伝え、唐有義は地行拳(地[走尚]拳)を伝えた。

この時戳脚は既に完全に成立しつつあり、文九・武九・2×9=18[走尚]を以ってその基本套路とし、

その中に「金鋼架」「金鋼錘」「六合根」等の初級套路及び十八[走尚]の基礎上に組み合わせられた

「甲子錘」「三[オ闌]手」「小力士拳」と派出した燕子拳等が含まれている。

他にも全面的な各種武術器械が有り、1つの大きな流派を形成。この門派は戳脚門と称している。

戳脚は蠡県のこの一支派に伝わった後劉観瀾兄弟三人及び魏昌義・魏老方・高慶天を経て

それぞれ劉振国(劉桂の子)・劉振江・趙振基・冉振山・王占鰲・魏贊魁・王老倉・于印同等に伝えた。

第四代は劉景山(劉振国の子)・王雲鵬・呉斌楼・彭法雲・劉仁義・劉経才等に伝えられ、

跡絶える事なく現在まで伝承されて来た。上述した拳師の中において劉観瀾が武術の造詣が

優れて深く最も名声を得た。その動作の軽快敏捷さから人に「賽活猴(生き猿に勝る)」と称された。 

1903年劉観瀾は逝去。蠡県武術界の著名人は彼の為に門左に碑を立てたという

後に劉振国は山西穎洲一帯の徒弟に授けており、呉斌楼は北京にて多年にわたり伝授を行い、

王雲鵬(王龍)は南京中央国術館で教員を勤めていた期間にある程度の伝授があった。 

河北・沈陽・北京・山西等の地では今に至るも依然として戳脚の伝承がある。


戳脚は拳脚を併せて重んじ、攻撃と防御が厳密に結合された伝統拳術である。 

戳脚は「武」「九[走尚]」、「文”九[走尚]」全部で十八[走尚]をもって套路の基礎とし、

文[走尚]子にはその上各々独立した名称がある。 

その腿法・手法・身法は各自八種類の型に分けられ、腿法の変化は9×9=81に及ぶ。

文と武、套路間の区別は陰と陽で、文[走尚]子の特徴は架式が小さく、動作厳緊、

風格は霊活多変、勁萬剛于柔、柔而后剛、攻防方法は比較的含み隠されている。 

武[走尚]子の特徴は架式が大きく動作舒展、風格は硬攻直進、烈打猛冲、勁法は剛里含柔、

攻防方法がはっきりと表れている。 

戳脚はまた十三種の動物(龍・虎・猴・馬・鶴・鶏・熊・燕・鴕・鷹・鷂・蛇)を象形している

また、戳脚腿法は総括すると八種類あり「北腿」の代表と称されている。

その各種各々の攻防方法は合計で八十一種類存在し「戳脚八十一腿法」と称されている。


・功力拳(こうりきけん)  

創始者:一指霊和尚(伝説)

発祥地:河北省滄州

功力は「練功の力」の事で、下半身を鍛え拳法の基本の姿勢を学ぶのに適している為

戦前では南京の中央国術館や上海の中央精武会で採用されていた。


・通背(臂)拳(つうはいけん/つうひけん)

創始者:韓道長(清の導師)・白猿(戦国時代)

発祥地:河北省

鞭の様にしなやかでスピード感溢れる実戦的拳法で、中国武術中でも最高の拳技の1つと賞される

その動きは猿が獲物を得る動作に酷似する事から、猿の動きから通背拳が生まれたとの説もある

なお通背拳の名称は「力を背中を経由させて発揮する拳法」という意味があるそうだ

現代中国では通背拳は近代競技としての位置付けを得ている。

そんな背景もあり、武術としてでは無く演武などを意識した伝授に変容してきている

又、白猿通臂拳(通背拳)・劈掛通臂拳・少林通臂拳・五行通臂拳などの流派がある


・心意六合拳(しんいろくごうけん)

別 名:「心意拳」「十大形」「守洞塵技芸」

心意六合拳とは、イスラム教徒(回教徒)のみに伝えられていた極めて閉鎖性の高い流派

一般の中国人に伝えられるようになって、心意拳はこの閉鎖性を取り込み「門生組織」を形成した。

つまり心意拳の門をくぐるに値すると認められた者のみに伝える「門内拳」となったのである。

心意拳に入門した者は十形の内いずれかに属している。(これは心意拳士の立場を証明するもの)

心意拳を名乗る者同士が出会った場合、自分がどこに帰属しているか明確に出来なければ

正当な門内生であるとは認められない。

「心意」の意味は心の在り方を指し、「六合」は六式・六芸とも呼ばれ、

「鶏腿・龍身(龍腰)・虎抱頭(虎撲)・鷹捉(鷹抓)・熊膀・雷声」6つ原則の事で、

身体の活用法の要点を述べている。

心意六合拳は三節(身体の付け根・中間・末端)を使い、四梢を起こし、五行(内蔵と五大勁力の意)を用い、この六式の原則を合わせて10種の各動物の襲 撃、避勢、捕捉等を呈した拳法なのだ

それら象形は十大形と呼ばれ、「鶏・鷹・虎・龍・熊・馬・猴・燕・蛇・鷂」各単式練法の総称である。

この10 種の動物は大別3種に別れ、1つは翼を有し空を飛ぶ鳥類4種であり、

2つ目は四つ足で地面を歩く獣類4種で、最後に鳥獣とは別属する中核的部分の龍である

この3 つの構成が心意六合拳の技術(変化)のポイントとなっている。

又、套路は「四把拳」(別名:四把三星拳)が最も有名


鶏 站:心意六合拳では、この鶏站と鶏行歩をとりわけ重要にする。

     站とは鶏行歩の動作を静的に練功する。

      全ての基本にあたり、体の捻り・重心・バランスなどをこの練功により体に叩き込む。

鶏行歩:足は腕のような器用さが無く、感覚も鈍い為に相当苦労を強いられる。

     量よりも質の練習を十分行わなければならない。鶏腿は歩行を司り、一気移動した

     流体(人体)を一瞬に停止させたり、力を送り込む役目があり「脚打七分」という。

鷹捉把:要は力の貫通法に相当する。

     自分が出した力を損なう事なく100%相手に伝えるために行う、技法終了間際の処理

虎抱頭:「虎抱頭」とは技法を始める前段階の状態を指す。別称は「虎撲」

     虎が自分の頭を抱える事ではなく、襲う時に相手の頭部(頚部)に掴みかかる様を言う。

龍 腰:龍腰は「腰股・背骨・腕の付け根」等の大筋肉群や骨、腱の活用を指し、

     通背拳等と交通する部分がある。これらも伸筋である腰股も腕の付け根(膀)に根節で、

     鶏腿と同様に特殊活用を瞬間的に行う。

熊 膀:熊には「護身の本」がある。頭を垂直に保ち、肩が落ちて肘が自然に垂れ、

     胸前に両手がある。これは単純なリラックス状態だが、更に一歩深く活用する。


・八門拳(はちもんけん)    

発祥地:甘粛省

シルクロードの秘拳


・意拳(大成拳/いけん/たいせいけん)    

創始者:王郷斉(おうこうさい/1886〜1963年)

かく雲深より形意拳を学んだ王郷斉が、形意拳をベースに、

太極拳の柔化・八卦掌の身法・少林拳の立禅を取り入れて創始した。

固定した型はなく、站椿(たんとう)に重きを置き、深手と呼ばれる無型の組手を行なう。


・太氣至誠拳法(太氣拳/たいきしせいけんぽう)

創始者:澤井健一

意拳(大成拳)創始者・王郷斉老師から唯一、外国人として学んだ日本人・澤井健一が

師の許可を得、創始した中国拳法である。理論だけに走りがちな中国拳法の中で

実戦性とその強さ故、武術関係者からは最強の実戦中国拳法と畏れられ、

多くの武術家が澤井の教えを請い、極真会館創始者・大山倍達総裁とも親交が深かった事もあり

極真空手を始め様々な武道・武術に影響を与えている。

大氣拳の核である、「立禅」は予備動作が完結した構えであり

つまり一般では肉体を鍛え「構え→予備動作→ 攻撃」のプロセスを図る所、

大氣拳に置いては「予備動作」の作業自体を無くす事により最高水準のスピード攻撃が可能となる


・戴氏心意拳(たいししんいけん)

創始者:姫際可(きさいか/字 龍峰/明万歴1591〜清康煕初年1677年/伝説)

     戴龍邦(清康煕52年1712〜清嘉慶7年1802年)

明朝初期、山西省祁県の漢族・戴龍邦(1712〜1802年)が家伝の内丹法に加え

曹継武により伝えられた心意六合拳などを学んだ後に創始した。

その後、4代・戴魁(1874〜1951年)に至るまで戴氏一族にのみ極めて保守的に伝承されてきた

戴魁以前に戴氏以外に伝わった流れとしては現在いくつか確認されていて、

山西省太谷の李洛能(1808?〜1890?年)が戴氏3代・郭維漢から学び形意拳として伝えた流れ、

更に戴氏2代・戴文量から彭庭春〜胡耀貞(気功の父)〜

馮志強(日本では陳氏太極拳家として有名)へと続く流れがある

戴氏心意拳4代・戴魁には子はおらず、流浪生活の中で数多くの弟子に戴氏心意を伝えた

その中で特に優れた者達は「十大弟子」と称され、その弟子達もまた戴氏心意を

数多くの弟子に伝えているのだ。

因みに「日本王氏戴式六合心意倶楽部」では戴魁十大弟子の一人、

王映海(第5代)から北西勝海(第6代)に伝えられた戴氏心意真伝の修得を目指していると云う。


山西省祁県の「戴氏」は明朝初期に洪洞県から移り住み、明の万歴年間に戴光啓が進士となり

後に巡辺大臣に任ぜられ「戴巡辺」と呼ばれた。それ以後、戴氏は祁県に広大な田畑と

家屋敷を所有し、県外では商業を営んでいたため「南山一つに県都半分」とうたわれる様になった。

「山西商人」といえば明初より政商として活躍、清朝には金融業を中心として多方面に手を広げ、

新安商人と並んで明・清朝期の経済を牛耳った商人層である。役人・地主・大商人を兼ね備えた

祁県一の富豪どころか、現代の高校世界史の教科書にも載る程の

世界的に有名な大商人であった。

その後、清代中頃に戴龍邦が出ることにより戴氏心意拳が創始される事となる。


現在、「心意」を冠する門派は戴氏心意拳の他、河南の「心意六合拳」、

少林寺の秘伝とされる「心意把」、形意拳の一部にも心意と称する門派があるという

これらは明朝末〜清朝初期の姫際可が得意の槍術を基に創始した武術が源流だと云われている

姫際可の武術は比較的多くの人に伝えられた様で、「心意六合拳譜」が少なくとも4人の手を経て

太極拳の源流である陳家溝に「三三拳譜」として伝えられている事からもそれが伺える。

また現在も姫際可の武術の初期形が「心意把」として、元来12技法の内2つが少林寺に残っている

清朝乾隆年間には戴氏心意の他に、

河南の回族・馬学礼(1711〜1790年)を初祖とする「回族心意六合拳」が成立した

各々特徴は違うものの、両派とも初期は極めて保守的に伝承されていた

しかし近年に至り、戴氏・回族の垣根を越えて外部へも伝授される様になった


・酔八仙拳(すいはっせんけん)

酔八仙拳は「呂洞賓・鉄拐李・権鐘離・藍采和・張果老・曹国舅・韓湘子・何仙姑」の

八仙人達で構成される象形拳である。

酔ったフリをしてフラフラ移動する「酔歩」を原理とし、相手を油断させる事を特徴とする

突然立ち止まったり転げて倒れたかと思うと突拍子もない所から攻撃が飛んでくる

と様々な姿に変化する。「葷酒門に入らず」と呼ばれる少林寺で酔拳が練習されるのも面白い話だ

また、酔八仙拳の器械には「剣」「棍」等が存在し大会でも多くの選手が「酔剣」を行っている。


呂洞賓:酔眼を用いて身体を左右前後にフラフラと踏み出し、まるで気が抜けた状態であるが

     内側では気が秘められている(蓄剄)。またひょうたんを用いた格好は正に「酔」である

鉄拐李:片足が不自由な仙人で、彼は障害を克服する為に足技を鍛錬し

     手技に劣らないスピードや奇抜な攻撃手段を用いる

権鐘離:両腕に力を秘めた仙人で、酒瓶を抱いた格好をして攻撃&防御をする

藍采和:女性仙人で腰を奇妙に捻りながら攻撃を避ける

     彼女は女性らしく花カゴを持ち、片足のみに靴を履く格好で油断を誘う

張果老:鉄拐李と同様に足技を得意としており、彼の場合は両足である為その威力は倍増される

     またアクロバット要素も備わっているので空中翻・旋風脚等が特徴といえる

曹国舅:足技+腕力に気を秘めた仙人で、

     酔八仙拳特有の手技「月牙叉手」を十分生かした技を多用する

韓湘子:笛を持って吹く様な動作をする仙人

何仙姑:藍采和と同様女性仙人で、彼女は腰を振ったり化粧したり

     肘鉄砲を使う等女性特有の動作で敵と闘争する


・身尚拳(ちしょうけん)    

別  名:地功拳

地功拳ともいわれ、地上に自ら転げ廻って闘う非常に変則的な拳法である。

だが地身尚拳の型は地上を転がるばかりでなく、一般の拳法の平常の戦闘技法も含まれる。

また、一般の拳法の中にも地身尚拳の技法を含むものがある。


・鷹爪拳(ようそうけん)   

発祥地:河北省雄県保定

鷹の動作を技法の特徴としている象形拳で、鷹爪手を用いての点穴法や擒拿法がある。


・華拳(かけん)

発祥地:陝西華陰県

変化に富み高度な技術を必要とする。十二路の型がある。


・猿拳(さるけん)

螳螂拳と同じく象形拳である「猿拳」は中国の大会等で子供頻繁に使用している武術

猿の動作を参考にしたこの武術は、猿の如く飛び跳ねたり転げ回ったりと、

きびきびとした素早さ、軽やかさやが特徴。また金属製の「棍」を使った「猿棍」は見た目にも面白い


・長拳(ちょうけん)

長拳は武術を始めようとする者が一番最初に学ぶのに適した武術と言われています。

中国でも武術をめざす人が6〜8歳頃から始めるのが長拳です。

元来少林拳や査拳、華拳などの北派武術の内でも跳躍や蹴り技が多く取り入れられた武術が

元になり、現在では競技用武術の代表的な種目となっています。


・猴拳(こうけん)

猿の敏捷な動きが取り入れられた象形拳で多くの支流がある。

本来は実戦的なものであるが、猿の物真似に終わってしまっている物もある


・羅漢拳(らかんけん)

羅漢の名は仏教の十八羅漢よりきたもので、型の中には羅漢像の姿勢が取り入れられている。  


・六合拳(ろくごうけん)

六合拳と名のつく門派は各地に多数存在する。

拳法の型は八本の技が基礎となっている河北省伝承のものと、

山東省伝承の六合短拳・六合短捶・六合単刀・六合双刀・六合棍・六合対棍の型がある。

また湖南、湖北省にも別の門派がある


・神意拳(しんいけん)

太田光信が創始した気功武術。

中国古来よりの「気」の力を用いて、指一本触れる事無く相手を自在に操る


・金剛拳(こんごうけん)     

北少林寺各派の把式や拿法の中のから、固め技や捕り技を集めて再編したもの。


・大・小洪(紅)拳

・五戦拳   

・節拳   

・二郎拳   

・八法拳   

・三皇砲捶  


南派拳術(外家拳)

外家拳とは肉体的な鍛錬を重視する中国拳法のこと


・劉家拳(りゅうかけん)

創始者:劉三眼(伝説)

発祥地:広西

進退が素早く跳躍動作を含み変化に富む。

歩法は吊馬・拉馬を多用し、手法は洪拳に似ており左右の攻めが密である。


・莫家拳(ばくかけん)

創始者:莫清嬌(ばくせいきょう/伝説)、莫達士(ばくたつし/伝説)

発祥地:広東

長・短打が結合しており、特に腿法に優れ「莫家釘脚」といって恐れられた。

攻防は緊密であり剛柔を併せ持つ


・蔡家拳(さいかけん)

創始者:蔡九儀(さいきゅうぎ/伝説)・蔡伯達(伝説)

手法が活発で、中指を突出させた鳳眼拳を多用し見えない位置から突然に突きを出す。

短打が主体で腿法は正足易を多く用いる。

剛柔を併せ持ち、型には十字拳・大運天・小運天・天辺雁などがある


・李家拳(りかけん)

創始者:李巴山(りはざん/伝説)・李友山(りゆうざん/伝説)・李応輝(伝説)

蛾嵋山の白眉道人より拳法を学んだ李巴山が創始したと伝えられている。

力強く、素朴で活発な動作を行なう。長橋大馬で側身側歩を歩法とする


・仏家拳(ぶっかけん)

仏教徒の伝来のものだと云われている。

型には内家拳・金錚拳・羅漢拳・仏家太子剣などがある。剛柔を備え独特の風格を持つ


・蔡李仏拳(蔡李佛拳/さいりぶっけん)

創始者:陳享(ちんきょう/1806〜?年/伝説)

発祥地:広東省

広東省新会県崖西京梅州人である陳定が

蔡家拳・李家拳・仏家拳を学び1836年(清朝道光15年)に創始した十三名拳の1つである

1つと言っても人気の上では他流派を凌駕するものがあり、洪家拳と供に南拳を代表する門派だ

現在では広東省及び香港・東南アジア・欧米でも盛んに行われている


陳享は1806年に生まれ、7歳のときより叔父である陳遠護に師事して、佛家拳を学ぶ。

その後、李友山に師事し北派少林拳の腿法を習得。さらに蔡福禅師に師事して、

羅浮山に篭り多年にわたり仏教と武術を修業。下山後に三家をまとめ蔡李佛拳を創始した

蔡李佛拳の名前は、蔡福禅師の「蔡」、李友山の「李」に、三人の師が少林寺出身であったため、

仏門への敬意を表すために「佛」をつけたという説明の仕方が最も一般的である。

又、蔡李佛拳には「鴻勝館蔡李佛拳」と「北勝館蔡李佛拳」の2つの分派が存在していて

鴻勝館蔡李佛拳は、陳享の入室弟子の一人・張炎が確立したものである。

北勝館蔡李佛拳は、張炎の孫弟子・譚三が創始したものである。

蔡李佛拳は、歩型は低くスイングやロングストレートなどの長橋手を比較的多く用いるので、

長橋大馬系の門派であるとされている。北勝館蔡李佛拳は特にその傾向が強い。

鴻勝館蔡李佛拳では短打も多く用いる。また北勝館蔡李佛拳も鴻勝館蔡李佛拳も

供に北派の流れも汲んでいるので、二起脚・旋風脚などの腿法も他の南拳に比べ多いのが特徴


・五獣拳(五形拳/ごじゅうけん/ごぎょうけん)

五獣拳の名は民国四年に出版された「小林拳術秘訣」と云う本が元である

技法は「龍・虎・鶴・蛇・豹」五種の動物の動きを模し洗礼した物で構成されている


・洪家拳(こうかけん)

創始者:洪熙官(こうきかん)

発祥地:福建省

福建省の茶商人・洪熈官が福建少林寺にて拳法を学び、後に洪家拳を編み出したといわれる。

広東には300程の門派があり、そのうち主要門派は「五大名家・十三名拳」といわれ

洪家拳は五大名家の一つで広東を代表する拳術の一つである。

また多くの南派門派は「福建少林寺」を発祥としているが、

福建少林寺自体まだ所在が確認されておらず、伝説上の存在でしかない可能性が強い

特徴は素朴で力強く、手法を多く用い腿法は比較的少ない。

拳套には高級になると「龍・蛇・虎・豹・鶴・獅・象・馬・猴・彪」10種の動物象形をした十形拳を学ぶ


洪家拳で主流となっているのは19世紀末から20世紀初頭に活躍した

洪家拳の伝説的名手・黄飛鴻(ウォンフェイフォン/1847〜1924年)から

林世栄(ラムサイウェイ/飛鴻の弟子)の流れを汲むものである。

黄飛鴻は父に「廣東十虎」の一人とされる黄麒英(ウォンケィイン)を持ち、

幼少期から父に洪家拳を伝授され、1麒英が死去した為に16歳で家業を継ぎ薬業店兼武館を継承。

その後、鉄橋三の高弟・林福成から「鉄線拳」を伝授され、

宋輝トウなる武術家から鉄線拳を交換教授する事で、あの有名な「無影蹴」を修得したのだ。

洪家拳の風格は比較的腰を落とし長短の手技と低い蹴りを多用する拳術で呼吸・発声法に細かい又、古伝の洪家拳は短打を中心に構成されている。

他にも初期段階から呼吸法や筋骨鍛練法を合わせた練功を行うのも特徴である。

徒手套路は「五行拳」「単工伏虎拳」「工字伏虎拳」「双工伏虎拳」「虎鶴双形拳」

「鉄線拳」「五形拳」「十形拳」などがあり、その他各種武器も伝わっている。

因みに「虎鶴双形拳」は近代になり林世栄が編んだ套路で、

古伝の五形拳の虎形と鶴形の動作・技法を取り入れているという説がある。

また「廣東十虎」の一人・王隠林の伝えた拳術(後の侠家拳、白鶴拳、ラマ拳の3派)の

虎形と鶴形の動作・技法を取り入れたという説もある。

洪家拳の基本功では様々なものが伝わっているが、代表的な物には「四平大馬」「三展橋」がある。

四平大馬は、足を肩幅の2倍程に開き、頭平・肩平・脚平・心平の姿勢を長時間保ち続ける練功法。

三展橋は、腕の部分的な鍛練であり四平大馬など様々な馬歩と併せて行われる事が多く、

「工字伏虎拳」や「虎鶴双形拳」などの套路の前部でも取り入れられた各筋を伸ばす鍛練法である。

また、脚に対しては三関(股間関節、膝関節、足首関節の筋の鍛練)、

胴体に対しては三盤(頚椎、胸椎、腰椎の筋の鍛練)といった鍛練法もある。


・白鶴拳(はっかくけん)

創始者:方七娘(伝説)

発祥地:福建省  

父・方慧石より学んだ少林拳を基に、方七娘が鶴の精妙な動きを取り入れて創始したといわれる。

鶴の食する姿、鳴き飛ぶ姿、宿立する姿、飛ぶ姿などから、

それぞれ食鶴拳・鳴鶴拳・宿鶴拳・飛鶴拳の四大流派が存在する


食鶴拳:鶴は餌を食べる為に敵を殺さなければならない

           従って殺敵を目的とした非常に攻撃的な拳法である

鳴鶴拳:鶴の鳴く形を言い、呼吸の呑吐を重視する

宿鶴拳:鶴の宿る形を言う。鶴は寝るとき一本足となる、従って脚法を重視される

飛鶴拳:鶴の飛ぶ形を言い、高架で長技を得意とする。防御主体


・詠春拳(えいしゅんけん)

創始者:厳詠春(げんえいしゅん/伝説)・五枚大師・j梅(ンメイ)

詠春拳もまた福建少林寺に属する南派武術で、

繊細かつ綿密な手技から電光石火の如く一気に攻撃をする事を得意としている。

詠春拳の創始説は2つ存在するが、いずれも清代初年に置かれている

時は清代嘉慶初年、反清複明を唱える福建少林寺の革命僧は政府によって寺を焼き払われ、

追手を逃れ各地に分散した。厳四もその1人で、彼は一人娘・厳詠春と福建連城県郊外で

豆腐屋を営み身を隠していた。詠春は幼少より父から「硬橋硬馬」を仕込まれていたが

女性の体質等の制限から不便を感じていた。ある日女性が悪漢にからかわれているのを見て

詠春は女性にも修得可能な武術を創ろうと決意したのだ

白鶴拳からは「含胸抜背」「墜肘」「三角歩」を採り、小林拳からは「小四平馬」等の

様々な歩法・身法を採って自身の工夫を加え「詠春拳」と呼ばれる新拳法を編み出した。

父・厳四が世を去ると、詠春は梁博球と結婚し広東省南雄県に移り住んだ

嘉慶二十年前後に仏山から巡業に来た王華宝(オウカホウ)なる人物がこの地で修行に打ち込み、

数年後仏山に戻ったが彼は詠春拳を秘拳とし50歳になるまで誰にも伝えなかった。

史実として確かなのは王華宝以後からで、弟子の梁贊(リョウサン)からは近代の歴史となる

梁贊は薬局業を営む傍ら武術を教授し、温厚な性格から親しまれ梁贊先生と呼ばれていたという

詠春拳は梁贊の実践経験から多くの改良を受け、更にシンプル且つ実戦的な物へと変化した

梁贊の三代後の近代詠春派香港宗師・葉問(イップマン)老師は師・陳華順の晩年最後の弟子で

師の病死後、香港に渡り近年亡くなるまで詠春拳を訓え続け人々から高い評価を受けた。

葉問門下からは李振藩・徐尚田・張卓慶などの有名な人物が傑出している

また、李振藩ことブルース・リーは詠春拳に様々な格闘技・武道を加え

独自の格闘芸術「截拳道(JKD)」を創始して世界中に多大な影響を与えたのはあまりにも有名。


もう1 つの詠春拳創始伝説は、小林五老の1人・五枚大師(尼僧)が創ったと云う説だ

五枚大師は福建少林寺が焼き払われた後、清朝官兵の追手を逃れて福建省大涼山にある

白鶴観内に身を潜めていた。彼女も分散した僧達と同じく反清復明の志を持ち、

従来の男性拠りの小林拳は女性にとって不適合である事を悟っていた。

そこで非力な人間でも対処出来得る方法を探し、

ある日、鶴と狐の争う姿を観て感化され創意工夫を凝らして新拳法を創ったと云われている

丁度その頃、ふもとで豆腐屋を営む厳親子が士豪に難を迫られているのを知り

同情して厳四の娘・厳詠春にその秘拳を伝授したと云う。


鍛錬する型は単練型で「小念頭(小さな考え)」「尋橋(隙をねらう)」「標指(さすような指)」

「木人椿」「六点半棍」「八斬刀」等がある。

詠春拳も南拳北腿の類に漏れず、手技主体の拳法で接近短打を得意としており、

手技の巧みさは類を見ない程直接的かつシンプルで、象形名が付いた技が存在しないと云う

西洋手技格闘技の究極がボクシングなら、東洋手技格闘技の究極は詠春拳ではないだろうか


・侠家拳(きょうかけん)

侠家拳は広東省の主流南拳「五大名家・十三名拳」の十三名拳の1つで、

言い伝えによれば侠家拳の源流はチベットのラマ僧が編んだ拳法に発するとされる。

史実として確認できるのは、臨済派和尚星龍長龍(別名:金釣禅師、大侠李湖子とも)が

四川より広東の慶雲寺に至り、僧人であった王隠林に伝えたのが最初である。

王隠林は又の名を王飛龍とも言い、「広東武林十虎」のうちで最強(第一虎)とも言われた。

王隠林には何人かの弟子がおり、王隠林の次の世代で3つの流派に分かれたが、

弟子の一人である王倫の流派は「侠拳」と名乗った。(侠家拳とも)

他の2流派は各々「白鶴拳」、「ラマ拳」を名乗っている。

この白鶴拳は福建に伝わるものとは別流派である。

また、ラマ拳という名称はラマ僧より伝えられたという伝説に由来している。

王倫先師は洪家拳名師で棍法で有名であったケ龍と深交があり、

それぞれの武術をお互いの高弟に学ばせた。ケ龍の子・ケ錦涛は洪拳侠拳の一代宗師となった。

ケ錦涛先師は楊式太極拳伝人である楊守中と供に多年にわたり切磋琢磨をし続けて、

太極拳の真諦をも得た。ケ錦涛は生涯を武術の普及に捧げ広州や香港に数多くの弟子を持つ。

ケ錦涛先師の子であるケ鎮江師父は4歳より父に武術及び書法を教わる。

侠家拳・洪家拳・太極拳を始め様々な武術を学び、広州市武術協会常務副主席、

広州武術館館長、広州武術代表隊領隊兼総教練などを歴任し、

1979年より広州南奧武術学校校長となり、後進の指導に努めておられる。


侠家拳は一般には長橋大馬を主な特徴としているとされるが、

実のところ長橋大馬・窄馬短打が調和され一体となっている。

螺旋勁・離心勁・寸勁を多様し、柔法が半分で剛法が半分であり、

その風格は「棉裏蔵針」と称される。套路は「小羅漢拳」「大羅漢拳(達磨拳)」などがあり、

武器は「侠家単剣刀」「黄龍棍」等がある。また多くの外功法・内功法が伝わっている。


・周家螳螂拳(しゅうかとうろうけん)

創始者:周亜南(しゅうあなん)

発祥地:福建省

周亜南が少林寺で修行した後に、螳螂と雀の闘う姿にヒントを得て創始したといわれている。

特徴としては上下が連動しており攻撃は迅猛である。北派螳螂拳とは技術内容が全く異なる


・五祖拳(ごそけん)

創始者:蔡玉鳴(さいぎょくめい)

発祥地:福建省

蔡玉鳴が「太祖拳・羅漢拳・白猿拳・鶴拳・達磨拳」の五門派を統合して編み出したといわれる。

現在フィリピンで多く行なわれているが、南派中ではその技法は大変高度なものと云われている


・白眉派拳(はくびはけん)

創始者:白眉道人(はくびどうじん/伝説)

発祥地:広州

蛾嵋山の白眉道人が広州で伝え、後に香港などに伝わったと云われている。

剛強凶猛で連貫性が強く、路線は広く大きい


・太祖拳(たいそけん)

北派太祖拳とは全く別の拳法で、

白鶴拳の太祖鶴拳を源流とする説や、明の太祖の遺法であるという説があり、創始者も不明。

拳套には土目化鶴・四点金拳・精光四門拳・竜蝦出角・殺眼拳・風車輪・祖伝拳・三戦などがある     

・羅漢拳(らかんけん)

白鶴拳・詠春拳から分化したものと云われており、北派の同名の羅漢拳とは別物。

一百零八手の型が有名


・小林拳(しょうりんけん)

別  名:崇山少林寺拳法

中国拳法の1流派で南派外家拳に属する拳法。

派手な足技を中心とするアクロバティックなものにその特色がある。

「日本少林寺拳法」とは全く別の武術・格闘技であるが、互いの交流は頻繁に行われている


・伏虎拳(ふこけん)      

・南枝拳      

・梅花拳      

・達摩拳      

・金鷹拳      

・孔門拳      

・昆侖拳      

・刀家拳      

・岳家拳      

・朱家拳      

・洪仏拳      

・儒拳      

・虎豹拳


テコ ンドー(蹴拳道/TAEKWON-DO)

創始者:崔泓煕(チェ・ホンヒ/1918年11月9日〜

「テッキョン」に「空手」の技術を組み合わせて1955年に崔泓煕(チェ・ホンヒ)が創設した打撃格闘技

テコンドー(蹴拳道)の文字は、「蹴」足技・「拳」こぶし・「道」礼儀を表している

又、韓国と北朝鮮の国技であり朝鮮半島で生まれた「文化」であるのだ

「足のボクシング」と呼ばれ、多彩な蹴り技は約1200種類もあるという

その所為で足技のみの格闘法と思われがちだが、

正拳・裏拳・掌底・手刀・貫手・肘打ち等といった手技攻撃も存在。

高麗(コリョ)の高宗(コジョン)の時代、李承休(イ・スン・ヒュ)が書いた「帝王韻記(ジェウァンウンギ)」

の新羅武術を記述した所に「托肩術(タッケンスル)」について記してあり、

テコンドーの原型の「テッキョン」もこの托肩から由来した。

また朝鮮時代のテコンド史料の中一つで1790年に李徳ム(イ・トク・ム)、朴斉家(バク・ジェ・ガ)

が書いた「武芸図譜通志」に拳法という名でテコンドーの技術が図解と共に記録されている

一番古い実証は高句麗(コクリョ)古墳の一つである舞踊塚の玄室の

天障持送部 (チョンジャンジソンブ)に描かれている風俗画にみることができる。

数千年前、朝鮮半島では「高句麗・新羅・百済」3国による覇権争いが続いていて

最終的に三国を統一した新羅は花郎道(ファランド)を通じて学問を磨く一方、

心身を鍛える武術の一つとして 手搏(スウバク)を習ったという

現在テコンドーは北朝鮮のITF(国際テコンドー協会)と韓国のWTF(世界テコンドー連盟)

の2 大組織に別れ、既に別の格闘技と言って良い程スタイルや試合ルールーに差異がある

WTFテコンドーは早くからスポーツ路線を推進し、オリンピック参加を目指して活動を続け

2000年シドニーオリンピックで遂にオリンピック正式種目となった。

ITFテコンドーは1970年代から積極的にアメリカ進出を図り、

より格闘技の色彩を持つ様になりマーシャルアーツ(プロ空手)の原型ともなった。


テコンドーは「足技のボクシング」と呼ばれるくらい蹴り技が豊富で、全部で約1200種類も存在する

技術は大きく2つに分類され、1つは内面へダメージを与える「チャチルギ」系で、

「回転横蹴り」「跳び横蹴り」など腹部を攻撃しダメージを蓄積させる横蹴りの派生技が多い。

もう1 つは骨・筋肉を破壊する「チャプシギ」系で

こちらは「後ろ回し蹴り」「跳び回し蹴り」など大ダメージを与える回し蹴りの派生技が多い。

テコンドーでは攻撃だけでなく防御にも足技が使われ「マッキ(受け)」と呼ばれる分類になる


チルギ(拳突き)/ヨプチャチルギ(横蹴り)/トラ・ヨプチャチルギ(回転横蹴り)

ティミョ・ヨプチャチルギ(跳び横蹴り)/ティミョ・トラ・ヨプチャチルギ(跳び回転横蹴り)

アプチャプシギ(前蹴り)/ネリョチャギ(踵落とし)/コロチャギ(掛け蹴り)/トルリョチャギ(回し蹴り)

パンデ・トルリョチャギ(後ろ回し蹴り)/ティミョ・トルリョチャギ(跳び回し蹴り)

ティミョ・パンデ・トルリョチャギ(跳び後ろ回し蹴り)/サンメルシット(後方回転蹴り)/組手(マッソギ)

サンチャチルギ(上体突き)/ハンソンクッ(一本貫手)/ヌルロマッキ(抑え受け) etc


テコンドーも段階制を採用しており、帯の色で見分ける事ができる

10〜9級は白帯、8〜7級は黄帯、6〜5級は緑帯、4〜3級は青帯、2〜1級は赤帯、

そして1段以降が黒帯となっている。帯の色づけには各々意味があり、

無(白)から大地(黄)が生まれ、種がまかれて芽(緑)が出て、空(青)に向かって成長する。

黒帯の前の赤帯は「注意・警告」を表し、黒帯の前に初心に返り自分を戒めるという意味がある。

また黒帯以降は段位の数だけ帯に白いラインが入る事になっていて

最高段位である9段を締めているのはテコンドーを創立した総裁だけである。


テコンドーの型(トゥル)は全部で24あり、24番目のトンイル(統一)は6段での修得課題である。

9級 チョンジ(天地) /8級タングン(檀君) /7級 トサン(島山) /6級 ウォニョ(元曉)

5級 ユルゴク(栗谷) /4級チュングン(重根) /3級 テェゲ(退渓) /2級 ファラン(花朗)

1級チュンム(忠武)

初段クワンゲ(廣開)・ポウン(圃隠)・ケベク(階伯)

二段ウィアム(義菴)・チュンジャン(忠壮)・チュチェ(主体)

三段 サミル(三一)・ユシン(庚信)・チェヨン

四段ヨンゲ(淵蓋)・ウルチ(乙支)・ムンム(文武)

五段 セジョン(世宗)・ソサン(西山)

六段 トンイル(統一)


・ITFテコンドー(国際テコンドー協会/International Taekwon-do Federation)

1955年に崔泓煕(チェ・ホンヒ)が朝鮮民族独自の武道「テコンドー」を生み出した

チェ氏は日本の空手を研究し、その技術を朝鮮の古武道と融合させる事に見事成功

そして世界中にテコンドーを普及させる為、東南アジアやヨーロッパ各国を巡り精力的に活動した

1966年には9ヶ国の承認を得て「国際テコンドー協会(ITF)」をソウルで創設した

初めての国際大会は1969年香港・第一回アジアテコンドー選手権で

1972年にはITF本部を、カナダのトロントへ移す事となった。

そして国際テコンドー協会総裁・崔泓熙を始めとするITFメンバーの普及活動の結果

1974年第一回世界テコンドー選手権大会がカナダのモントリオールで開催され、

1975年にはオランダ、アムステルダムで第一回ヨーロッパテ拳道選手権大会が、

1981年には第一回テコンドー太平洋地域選手権大会が

オーストラリア、クィーンズランドで開催される事となった。

1985年以後、ITFはオーストラリア、ウィーンに本部を移し現在も活発な普及活動を続けている

ITFテコンドーの特徴は実戦性の高さにあり、多彩な蹴りだけでなく顔面パンチも認められている

ITFテコンドーは華麗さと同時に過激さを併せ持っているといえるでしょう。

又、アメリカンカラテであるマーシャルアーツの原型になったと云われている

その為、潜在的競技人口が多く現在104ヶ国およそ4千万人の門下生がいるそうだ


・WTF テコンドー(世界テコンドー連盟/World Taekwon-do Federation)

WTFは総裁・金雲龍の尽力により1973年に創立され、

1980年に国際オリンピック委員会にて1984年アジア競技大会の正式競技に採択された。 

その後1988年、1992年のオリンピックでは公開競技として参加し、

遂には2000年シドニーオリンピックで正式競技として開催された。

日本にWTF テコンドー組織が創られたのは1981年で、それが「日本テコンドー連盟」である

WTFテコンドーは発足当時からオリンピックの正式種目を目標に置いており、その為に

安全対策に積極的に取り組んだ。

頭部にはヘッドギア、ボディには胴部分防具、足にはプロテクターを着用して試合が行われる

攻撃に関しては顔面パンチや腰から下への蹴りが禁止されている。

これ等の事からWTFテコンドーはスポーツ色が非常に強い格闘技と言えるであろう

WTFは1980年に国際オリンピック委員会にて1984年アジア競技大会正式競技に採択され

1988年ソウル、1992年アトランタオリンピックでは公開種目として参加した

そして1996 年のIOC執行委員会の決議により、2000年シドニーオリンピックで正式種目となった。


・JAPAN-ITFテコンンドー(日本国際蹴拳道協会)

ITFテコンドーが日本に伝来されたのは 1981年の事で、

在日韓国人企業家・全鎭植(ジョン・ヂンシク)の協力で1982年11月日本普及の足掛かりとなる

「モランボンテコンドー府中道場」が創設された。翌1983年には二番目の道場が調布市に創設され

遂にITF認可を受けて、世界76番目に1983年7月4日・日本国際蹴拳道協会(JITF)が発足

初代会長には全鎭植(後のITF首席副総裁)が就任。

支柱となる協会が発足し黄進(ファン・ジン)首席師範を筆頭にして首都圏から全国へ道場は急増

1985年6月に国内初テコンドー大会が多摩市体育館で行われ、

1990年には第一回全日本選手権大会が開催された。黒帯大会が開催された事も手伝って、

四天王「速水勇、黄秀一(ファン・スイル)、朴禎賢(パク・チョンヒョン)、李種穆(リ・ジョンモク)」

を始めとする強豪選手が育成され、テコンドーの歴史を飾る名勝負を残す事となった


テッ キョン(TEAKKYON)

テッキョンは韓国伝統武術の一つで、手と足の動作から出る力を利用して相手を制圧し

自分の身体を守る伝統武術で、武術としては唯一韓国重要無形文化財(1983年/第76号指定)

昔は「手博(スバク)・脚戯(カックヒ)」と呼ばれ、手博とは手技を、脚戯とは足技を意味した

手の動作は両手を上下左右に又は、円を描きながら内側あるいは外側に回す動作を言う。

足の動作は正三角形の頂点をのろのろと代わる代わるに踏みながら行う動作を基本とする

その動作は一見踊りの様だが、実際には弾力的で大変な威力を持っている。


韓民族が何時頃からテッキョンをし始めたのか確かな記録は残っていないが、

古代の古墳壁画等でその姿を確認出来る事から、古代から行われてきた事が分かる。

又、様々な歴史書に韓国民が「端午(ダンオ)・秋夕(チュソク)」等の祝祭日で

テッキョンを楽しんだ記録が残されている。

韓国の歴史家によると、高句麗時代頃の武術が中国で拳法になり日本で柔道になったという。

テッキョンが大衆化された要因は古代の武課試験項目にテッキョンが含まれていた為である

だが、朝鮮時代末期まで盛んに行われたテッキョンは大東亜戦争当時に禁止され、

解放後広まる日本武道の勢いに押され姿を消す事となる。

その後辛うじて生き残ったテッキョンは1983年・重要無形文化財に指定

次いで1984 年釜山で「韓国伝統テッキョン研究会」が発足され、テッキョンの大衆化が導かれた。

 1990 年代にはテッキョン研究会を中心として「大韓テッキョン協会」が結成された。

今日では国民的スポーツとして一般に普及し始めている。

又、テッキョンの段階は「無級から1級」〜「初段から9段」まで総18段階のレベルを持つ。

その審査は審査会という集会を通じて定期的に行われ、修練者は一同に技を評価し競い合う。

また柔道・剣道などの様に、テッキョン協会でも1993年9月1日から協会公認段を発行している


テックンムスール


韓国が特殊部隊用に開発した格闘術

国家警察868部隊でもこれを教えているそうだ


戸隠 流忍術(とがくれりゅうにんじゅつ)

始祖・仁科大介(別名:戸隠大介)が戸隠で修得した技に伊賀流を複合して創始した忍術

養和元年(1181年)越後守城太郎資長を率いる平家軍は

信濃の国木曽に兵を興した信濃源氏・木曽義仲を平定する為、信濃に向かい進軍していった。

これを迎え打つため木曽義仲は戸隠山を源流とする裾花川の上流木曽殿アブキに陣を張った

義仲の家臣としてこの合戦に加わった豪族・仁科大介は古くからこの戸隠で忍術の修行をし、

「飛鳥術」「銛磐投げ術」など戸隠修験独特の技を身につけていたと云われている。

寿永3 年(1184年)義仲の討死後、仁科は伊賀へと逃れ

戸隠で修行した技に伊賀流忍術を取り入れ「戸隠流忍術」を完成させたという

その後、戸隠流忍術は脈々と受け継がれ

戸隠流忍法・神伝不動流奉体術・虎倒流骨法術・高木揚心流柔体術・九鬼神伝流八法秘剣

玉虎流骨指術・義鑑流骨法術・王心流忍法・雲隠流忍法などの九流派を統合し、

「武神館九流派八法秘剣宗家」にして戸隠流34代目宗家・初見良昭により世界中に広められている


ドラッカ(DRAKA)


ロシア生まれの投げあり打撃格闘技。柔道着に良く似たユニフォームを着用する


南蛮 殺倒流拳法(なんばんさっとうりゅうけんぽう)

甲賀流忍術十四世・藤田西湖が伝えた武術で、

最近では糸東会前会長・岩田万蔵が大円流杖術宗家伝承と共に南蛮殺倒流宗家を継承していた

その技術は投げ・関節・当身が一体となったもので、急所に対しての厳しい攻めを特徴とする

ただ藤田氏以前の事は不明点が多く、一説には「南蛮」は「難波」が訛った物とも云われている

明治三十二年浅草永住町で生まれた西湖氏は、

細川家の家臣だった祖父から忍法を伝授された名人であった。

西湖氏は戦時中、陸軍中野学校にて諜報術・武術(萬川集海/甲賀流/南蛮殺倒流)等を教授して折

節の抜いた竹で息をしながら水中に潜む術や、腕や脚の関節をはずして縄を抜ける術

音をたてずに歩いたり階段を昇る術、壁や天井を這い回る術などを実演しながら教えたと云う。

又、戦後間は糸東流・摩文仁先生や極真・大山総裁、大氣拳・澤井先生らとも親交があったそうだ

余談だが、西湖の父は警視庁刑事で山窩(サンカ)の資料を集めたそうで

後に三角寛がこの資料をもらいうけて山窩小説を書いたといわれている。


日本 拳法(NIPPON KEMPO)

「総合格闘技」の概念に基き、1932年(昭和初期)に澤山宗海に創始された格闘技

当時関西大学の学生であった澤山氏は柔道3段の実力に加え、

空手・柔術・ボクシング等の研究にも余念が無かった。

空手の「寸止め」に疑問を抱くにあたり、剣道の防具に似た物を着用して

実際スパーで技術向上を図れるように工夫を凝らした

ただ、日本拳法も最初から総合格闘であった訳ではなく、

当時の風潮通り危険を避ける為に「真剣組手」と呼ばれる寸止めルールで組手を行っていた

だが、あくまで実戦に耐えうる格闘技を目指す為防具着用での組手へと変った

そして1932年「大日本拳法」と命名、1947年に「日本拳法」の名称へと改名する

日本拳法の技術は突き蹴り等の打撃技から絞め・関節技へと移行もので、

日本では自衛隊の徒手格闘技・警察の逮捕術に採用されている事から、その実践性が判る


バン ドー(BANDO)

ミャンマー(ビルマ)で格闘技全般を意味する言葉と云われている。


パン クラチオン(PANKURATION)

紀元前648 年・第32回大会から古代オリンピック種目として採用され行われた古代格闘技。

打撃に始まり、投げ技・絞め・関節技などあらゆる攻撃が基本的に認められていたと云う

禁じ手は急所蹴り・目潰し・噛み付き・拳による顔面殴打。

勝敗はギブアップ又はノックアウトによって決まるが、

万が一相手を殺したり重大な怪我を負わせた場合は反則負けとなる。

現代総合格闘技と酷似してるが、古代パンクラチオンがいかにスポーツ的かよく分かる

だがその命は短く、古代オリンピックが中断しローマ帝国が支配するようになると、

パンクラチオンは奴隷を競わせる「殺人ショー」へと変貌していった。


フィ リピノカリ(FILIPINO KALI)

その名称通りフィリピンの武術

カリとは「KAMOT LIHOK」の略で「手の動き」を意味している

技術的特徴としては手技を重視する事、聴勁を活用する事、武器術を重視する事等々である。

フィリピノカリの原型は東南アジア・マジャパヒト王国にて「カリ」と呼ばれた武術で、

現在では多数の流派に別れ一部の流派はエスクリマやアーニス等に分派している


1521年マゼランが世界周航の際にフィリピンを訪れ、原住民のラプラプ(Lapu Lapu) に殺された。

実は、このラプラプもカリの使い手・エスクリマドール(Eskrimador)であったのだ

その後スペイン文化との接触を経て、フィリピンではスペインのフェンシングが研究され

「エスクリマ」と称する分派が誕生した。(フェンシングの正式名がエスクリムの為)

また、同時に従来の棒術とスペインのナイフ術を組み合わせた

エスパダイダガ(espada y daga/二刀流的な技術)も研究されていた。

結局、部族間の対立抗争やスペイン人の銃の為にフィリピンはスペインの植民地となったが

カリは「踊り」としてスペイン人の眼を欺いて稽古され続けた。

1898年の米西戦争の結果フィリピンはアメリカの植民地となり、

この時代も、エスクリマドールは暴動を繰返し、特にモロ族は拳銃で撃たれても怯まなかったそうだ

第二次世界大戦後は、多くのエスクリマドールの達人がアメリカへ移住し

その結果、フィリピンではカリはすっかり廃れてしまったと云われている。

この移民の中に、ジョン・ラコステ先生やフロロ・ビラブライル先生(Master Floro Villabrille)も

含まれていた訳である。

因みに、ビラブライル先生は「フルコンタクト・カリ(棒を使うバーリトゥード)」のグランドチャンピオンで、

JKD後継者ダン・イノサント師父も彼の指導を受けていたそうだ。


フェ ンシング(FENCING)

フェンシングは中世の騎士道が華やかであった頃

「身を守る」「名誉を守る」ことを目的として磨かれ、発達してきた剣技である。

その後、火器類の発達により戦の場での実用性は急速に衰退していったが、

その繊細かつスピィーディなテクニックに魅せられる者が多く、競技化への道を歩む事となった。

1750年に金網のマスクが開発され、危険性が大幅に緩和されたことが引き金となり

この頃からヨーロッパ各地で盛んに競技会が開催されるようになる。

オリンピックでは、第1回近代オリンピック(1896年/アテネ)以来正式種目となっている

しかし、当時は競技方法やルール等がまちまちだった。

1914年6月パリで開催されたIOC国際会議で統一的な「競技規則」が採用された。

これにより、見解の相違等による論争やトラブルが急速に陰をひそめ、同時に現在の

FIE(国際フェンシング連盟)の規則書の原案ともなり、競技の国際性を確立する上で大きく貢献した。

日本では明治初年、陸軍戸山学校で仏人教官により片手軍刀術として伝えられた。

スポーツとしてのフェンシングは昭和7年、岩倉具清が帰国し、

慶応・法政等の学生に教える事から始まった。

オリンピックは1952年、ヘルシンキ大会に視察員を派遣。初の選手団参加は1960年ローマ大会

オリンピックの成績は1964年の東京大会で男子フルーレ団体が4位入賞したのが最高。

「オリンピックでメダル獲得を」が日本フェンシング界の悲願となっている。


フェンシングは剣の相違により「フルーレ」「エペ」「サーブル」の三種目に分かれており

「フルーレ」では最も軽い剣を使用し、首・手足を除く胴体部分を有効命中面とし突きだけでの勝負

「エペ」は元々は決闘用の武器から転じた物で重い剣を使用する

こちらも突きだけの勝負であるが、全身が有効命中面である。

「サーブル」では、突くだけでなく切る動作も可能で、有効命中面は上半身とされている

これは、この種目の前身が騎馬民族による馬上の剣技であったことに由来している。

馬を傷つけない為、互いに上半身のみを狙って戦った事がそのままルール化されたのだ

三種目とも男女の個人戦・団体戦が行われ計十二種目となる。

だが、女子サーブルは正式採用が1999年1月と遅かった為、シドニーオリンピックでは実施無し

試合方法は、予選が5本勝負(5本先取方式)。

参加選手を6〜7人のグループに分け、各グループ(プールと呼ばれる)内で総当たり戦を行い

勝率等により上位約70人(大会によって人数に若干の差異がある)を残す。

そこから先が決勝トーナメント(エリミナシヨン・ディレクト)と呼ばれる勝ち抜き戦となる。

決勝トーナメントに入ると15本勝負となる。

試合時間は実動9分間(約1分間の休憩をはさみ、3分間ずつ3セットマッチ)

同点のままタイムアップを迎えた場合は、1分間を限度とする延長戦を行う。

延長戦に入る前に、予め抽選で片方の選手にアドバンテージを与えておく。

延長戦でポイントがなかった場合は、アドバンテージを得ていた方の選手の勝ちとなるのである。

(大会によっては上記の試合方法と異なった方式の場合がある)

審議は三種目とも電気審判器によるランプの点灯で判定している。

最近は電波を利用する無線(コードレス)審判器の研究開発が進み2000年度の

ワールドカップから、ベスト32に残った選手は決勝までこの無線審判器を使用することになった。

コードを引っ張りながら試合する必要がなくなるので、

選手たちの動きがより軽快になり、試合が見やすいと好評である。


不二流体術(ふじりゅうたいじゅつ)


不二流体術は、植芝盛平の甥にして親英体道創始者・井上方軒に学び

独自の体術を創り上げた古賀不二人(?年〜1997年)が創始した体術である。

現在は古賀氏より不二流第二代宗家を受け継いだ田中光四郎が技術の普及を成している。


不二流体術第二代宗家・田中光四郎(たなかこうしろう/1940年福岡県田川市生まれ)は、

幼少時より武道に親しみ、柔道・剣道に始まり、空手(和道流・極真会館)

中国武術形意拳等を学びそれら武道体験をベースとして、

当て身・逆・投げ・絞め技などを総合した体術を編み出した。

1963年神奈川大学法経学部貿易学科を卒業後、

1967年にジャパン・リソーシス・コーポレーション代表となる

しかし、1980年旧ソ連のアフガニスタン侵攻に義憤を感じ、

単身、義勇軍としてアフガン・ゲリラ<ムジャヒディン(聖なる戦士の意味)>に参加し最前線に出て戦い同時にアフガンの兵士たちに武道を教える。

戦場で白い空手着姿で武道を教えている田中氏の姿は

世界のジャーナリストの注目を集め「アフガンのサムライ」と畏敬を込めて報道された。

戦闘に際しても、常に先頭に立つ事から「アマリアート(作戦、戦い)」というあだ名が付けられた

また、田中氏は映画「ランボー」のモデルとされた人物だそうだ。

その後、広島で開催されたアジア大会に参加不能と思われていたアフガニスタンの大会参加の為

孤軍奮闘して参加実現に尽力し、入場行進するアフガニスタン選手団30名中に田中氏の姿があった

1991年、初代不二流体術宗家である故・古賀不二人先生より二代目を譲られ

以後、実戦武術としての意気を失わない古武道としての不二流の普及発展に力を注ぎ

ミャンマーやタイ、ヨーロッパ各国へも指導に赴いている。

現在では、「不二流武徳會総師範」「国際難民救済委員会事務局長」

「日本自由アフガニスタン協会専務理事」「大地社常任顧問 」などを務めている。


プロフェッショナル・レスリング(プロレス/PROWRESTLING)


立ち技・組技・空中殺法等を駆使しエンターテイメント性を重視した「見せる格闘技」であり、

プロレスラーは技を避ける事をせず全て受けきる事からも「受け身」の世界とも云える。

レスリングは1896年第1回アテネ大会でオリンピックに採用されてから

メジャースポーツとしての地位を確立、ヨーロッパ各地で賞金付きの大会が開催されるようになった。

特にフランス・パリで定期的に開催された世界選手権は、賞金付きの大会の中で

最も権威あるものとされ、大会優勝者は「プロフェッショナル・レスラー」として多くの尊敬を集めた。

こうして19世紀末、移民と共にアメリカに米国レスリングの主流は当初からフリースタイルだった。

賞金付き大会として始まったレスリングの試合が、それに出場し生計を立てるプロを生む事になり、

プロのレスラーが自分達の手で興行を行うようになっていった。

現在、アメリカでプロレスは「スペクテーター・スポーツ」「マット・ショー」と呼ばれている。


・全日本プロレス

プロレスラーの力道山が戦後日本に根付かせたプロレスの後継スタイル。

ジャイアント馬場を中心的存在として、全日本レスラーには大型選手が多い

それ故、試合ではパワフルな打撃技が主体となっている


・新日本プロレス

全日本プロレスと並んで日本プロレス界の雄と称される団体

試合に勝負論を持ち込む傾向が強く、他団体との対抗戦や異種格闘技戦なども盛んに行っている。

この団体ではパワーファイターよりもテクニシャンレスラーが観客にウケる傾向がある


・パンクラス(PANCRASE)

1993年9月・船木誠勝と鈴木みのるが中心となって設立した団体

プロレス団体ではあるが、ここ数年はグレイシー柔術の影響を受けてバーリ・トゥード色も強い。

実際パンクラス選手はバーリ・トゥード形式の試合に出場しており、

パンクラス自体もバーリ・トゥード形式の試合を組んだりしている

又、ダウンやロープエスケープを1度も認めない「サドンデス方式」を独自に採用している

以上からもパンクラスはプロレスの範疇を超えた「格闘技集団」とも云えるであろう

関係組織:パンクラス東京・横浜、パンクラスGRABAKA、パンクラス・ハイブリッド・ブドーカンetc


・リングス(RINGS)

前田日明が’91年に設立した総合格闘技団体

オープンフィンガーグローブ着用での顔面パンチ可、ロープエスケープ無し、ダウン即KO

と云ったバーリトゥードに近い内容に、寝技膠着した場合15秒でブレイクとなる

独自ルール「KOK(キング・オブ・キングス)」ルールを採用

スピーディな試合展開でファンの根強い支持を集めている。

リングスの特徴は外国人選手の層の厚さであり、その外国勢の強さに周囲は驚いたという

また設立直後の91年に正道会館と提携を結び、

佐竹政昭や後にK-1で活躍する選手の参戦を実現させて話題を呼んだ。

関係組織:リングス・ジャパン・ロシア・グルジア・オーストラリア・オランダ・イギリス

      リングスUSA、NHB軍団(WEF)、リングス・ブラジル、ブラジリアン・トップチームetc


・FMW(Frontier Martialarts Wrestling ) 

大仁田厚選手が旗揚げ。大仁田選手引退(?)後、

荒井社長&冬木選手の提唱するエンターテインメント路線で活動

・みちのくプロレス 

ザ・グレート・サスケ選手が旗揚げ。

メキシコの国技・ルチャリブレを主体として、東北6県に絞って活動中

・大阪プロレス 

平成11 年4月地元大阪を拠点にスペル・デルフィン選手が「大阪プロレス」を設立

・ノア(NOAH)  

三沢光晴選手が「自由と信念」を旗印に、理想の団体を作り上げるべくプロレスリングNOAHを旗揚げ

新設のプロレス&格闘技専用会場・ディファ有明に拠点を持つ。

・ZERO−ONE 

橋本真也選手が、プロレス界の復興を目指して「ZERO-ONE」を旗揚げ

・UFO

アントニオ猪木総帥が引退後に旗揚げ。柔道王・小川直也選手をエースとした

・格闘探偵団バトラーツ 

平成7年12月に石川雄規選手(社長)が格闘探偵団バトラーツを設立。「B系」とも呼ばれた

PRIDEマットで活躍のアレクサンダー大塚選手が所属している

・闘龍門JAPAN

ウルティモ・ドラゴン選手(代表)が旗揚げ。

マグナムTOKYO選手、CRAZYMAXなどを中心に女性に人気がある

・CMLL JAPAN

京都のマスクメーカー・CACAOが母体のメキシコ団体CMLLをプロモート

代表自らミステル・カカオの名でデビューしている。

・DDT

高木三四郎選手をエースに現在、東京・下北沢、渋谷のクラブでエンターテインメント路線にて活動中

・大日本プロレス 

グレート小鹿社長(選手)が旗揚げ。

ケンドー・ナガサキ選手離脱後、若手中心としたデスマッチ路線へ。現在最も過激な団体であろう

・IWA JAPANプロレス

W★ING(消滅?)後にデスマッチ路線を引き継いだ団体。

・キャプチャー

「地下室マッチ」と言う、キャプチャー・インターナショナル独自の総合格闘技大会を開催している

・SPWF

谷津嘉章選手が旗揚げ。44歳にしてPRIDEマットに上がり壮絶なTKO負けは、記憶に新しい

・VAMOS

「VAMOS」とはスペイン語でいう「行け!!」とか「行く!!」の意味合いを持つ

中国地方限定のインディーズ団体で、鳥取県日南町出身のSHINOBIを中心に

完全なる地元密着ルチャリブレ(中国地方限定)を目指し、村おこし、町おこしプロレスとして活動

・TEAM2000 (チームツーサウザンド)

蝶野正洋を筆頭とし、ドン・フライ、大仁田、AKIRAで創設したユニット

・キングダム

・WAR

 

女子プロ団体

・全日本女子プロレス

日本最古(男女含む)の老舗団体

・JWP

元祖アイドルレスラー・キューティー鈴木(引退)などが所属していた団体

・LLPW

風間ルミ選手(社長)が旗揚げ。

エースに女子プロレス界最強とも云える神取忍選手がいる。

・GAEAJAPAN

長与千種をエースに若手や多団体からのベテラン等、最も選手層が厚い

ライオネス飛鳥とクラッシュ2000を再結成しブレイク。

・Jd’吉本女子プロレス

ジャガー横田選手を筆頭にライオネス飛鳥・若手で活動中

女子総合格闘技「Remix」で薮下めぐみ選手が準優勝している。

・ARSION

アジャ・コング選手がプロデュース

総合系とルチャ系の融合した試合スタイルとビジュアル系ファイターが売り。

・NEO

井上京子が所属している女子プロレス団体

・華☆激

 

海外の団体・スタイル


・WCW(World Championship Wrestling)

元ジョージアのローカル団体であったが、NWAのジム=クロケット・ジュニアによって合併された。

1988年に米テレビ界の大物テッド=ターナーがNWAを買収して「WCW」と改称した。

以後、リック=フレアー、スティングらを中心に崩壊したAWAの選手も吸収し

一気にアメリカ最大の団体に成長した。

90年代に入り、WWFとの団体抗争が激化し選手の引き抜き合戦が勃発。

また、NWA=全日路線から新日本プロレスとの提携に乗り換えが行われた。

93年以降、ハルク=ホーガン・ランディー=サベージ・ケヴィン=ナッシュらのWWF主力選手を

大量に引き抜いて視聴率アップを図り、96年に結成されたNWOは一大ブームを巻き起こした。

しかし、98年頃から視聴率で大幅にWWFに遅れを取るようになり大幅リストラが敢行された。

その後も経営難は続き、2001年1月にフュージェントメディアヴェンチャーズ社による

買収が進められたが、交渉が決裂。WWFの買収により3月に団体の活動停止が宣言された

2001年6月に新体制でのスタートが予告されていたが、

単独での放送には至らず、WWFの番組内での対抗戦が行われている。


・WWF(World Wrestling Federation)

1963年、ビンス=マクマホン・シニアがWWWFを設立し

ブルーノ=サンマルチノを看板選手に据え、東部地区を中心にNWAに対抗する勢力を築いた。

83年にビンス=マクマホン・ジュニアが代表に就任すると、

CATV(ケーブルテレビ)により一気に全米に進出し、NWAのテリトリーを圧迫。

ハルク=ホーガンをチャンピオンとして売り出し、

85年にはプロレス界最大のイベント「レッスルマニア」を開催した。

その後も数々のスター選手を生み出し、WWFは現在のエンターテインメント路線を確立

だが、キャラクター路線も一時蔭りが見えマクマホン・ジュニアの強引な性格からトラブルも多発した。

WCWの大量引き抜きで選手層が薄くなった98年頃から、

マクマホン自身がストーリーに関わるようになり、驚異的な視聴率アップを果たしたのである

それ以降は他団体に大きく差を付け、興業収益も大幅に増大した。

2001年、崩壊したECWの選手を大量に吸収し、

WCWの権利を買収して全米メジャーマット統一を果たした

本拠地はスタンフォードで、ニューヨークはホームタウンである。


・ECW(Extreme Championship Wrestling)

2大メジャーのWCWとWWFに選手を引きぬかれたものの、

エンターテイメント性と意外性そして実力では2大メジャーには負けていない第3の団体

ECWは、東部地区のプロモーターによって1992年に設立された。

WCWマットのマネージャーからECW入りしたポール=E=デンジャラスリーによって

「ハードコア」団体として売り出し、サブゥー・レイヴェン・サンドマン等を中心にカルトな人気を集め

アメリカマット第三の地位を築く。

視聴率戦争を繰り広げるWCW・WWFの両団体からの選手引き抜きが続き、

スター不足に悩んでいたが、TNNでのTV放送が始まりこれからの進展が期待される。

また、FMW・みちのく・全日本などの日本のプロレス団体との交流も行われている

本拠地はフィラデルフィア。2001年1月、経営状態の悪化から解散となった


・その他団体(Old American Pro-Wrestling)

アメリカにプロレスが生まれたのは19世紀

レスリングとストリートファイトがミックスされた形で観客を集めて試合が開催されたのが起源の様だ。

1908年には、アメリカン王者フランク=ゴッチと

ヨーロッパ王者ジョージ=ハッケンシュミットの初代世界王者決定戦が行われた。

ゴッチが初代王者となった後、世界王座はルイス、ズビスコらのレスラーに受け継がれたが、

やがて分裂し複数の世界王者が生まれた。

それらを統一したのが当時、不敗の連続記録を作っていたNWA王者ルー=テーズであった。

プロモーターたちが合同で全米マットを独占した「NWA」であったが、

王者認定をめぐってNWAから分かれる形で「AWA」が生まれ、

東部には「WWWF」が西海岸には「WWA」が発足しアメリカマットは他団体分立時代を迎えた。

80年代に入り、WWFのケーブルテレビによる全米進出がきっかけとなって

AWAは興行的に圧迫を受け崩壊、NWAもテッド=ターナーの保護下に入り、

93年にWCWのNWA脱退により事実上消滅し、

アメリカマットはWWFとWCWの2団体の寡占状態となった。


・ルチャリブレ(LUCHA LIBRE)

よく「ルチャリブレ」とは「自由への闘い」と訳されるがそれは誤訳で、

正しくはフリー・ファイト、つまり何でもありの「自由な闘い」。

しかし内容は原住民(リンピオ)対制服者(ルード)をテーマとした「自由への闘い」である。

ルチャ・リブレの創始者サルバトール・ルッテロール・ゴンザレス氏が

1930年にエルパソでプロレスの興行を視察し、プロレスに大きな魅力を感じたことが、

1933年のEMLL(Empresa Mexicana de la Lucha Libre)旗揚げのきっかけになった。

当時エルパソのプロレス興行を仕切っていたのはフランシスコ・アマウダというメキシコ人。

でサルバトール・ルッテロール・ゴンザレス氏は彼にメキシコでの興行の相談をもちかけた。

因みに、それ以前もメキシコでは興行は行われているが、地元スター養成という発想がなく失敗。

新しい土地にプロレスを根づかせるためには「地元スター養成」が必須のようだ。

そこでサルバトール氏は1930年から1933年旗揚げまでに大学生のフットボーラーを大挙スカウトし、

「地元スター養成」から行った。ディエンテス・エルナンデス、ジャック・オブライエン、ドクトル・テルク、

アドルフォ・ボナレス、シクロン・ベロス、アグスティン・アラマン、ボビー・ボナレス、エディ・パラウ

はすべてフットボールからの転向組である。


1933年9月21日、EMLLがスタート。旗揚げ興行の場所はアレナ・モデロ(後のアレナ・メヒコ)

旗揚げ当時のスターはインディオの血が混ざるヤキ・ジョー、チャロ・アグアヨ、ビセンテ・ロペス

メキシコというと覆面というイメージが強い。だが設立当初の1930年代のスターは皆素顔なのだ。

覆面レスラーのルーツは1934年デビューのマラビージャ・エンマスカラーダ(ルイス・ヌエニス)と

ムラシェラゴ・エンマスカラード(ムルシェラゴ・ベラスケス)←カッコ内は本名。

その後ザ・グレイ・シャドー、エル・チンパンセ等がデビューした。因みににエル・サントは1942年、

ゴリー・ゲレロは1944年デビュー、その後1940年代後半にはブラック・シャドウ、ローランド・ベラ、

ブルー・デーモン、エンリケ・ジャネス等が、デビューしている。

ブラック・シャドウは「トペ・スイシーダ」の創始者で、

サント・ジュニアにマスクを剥がされたエル・イホ・デ・ブラックシャドウは彼の息子ではなかった様だ

アメリカンプロレスにはかつて偽兄弟が横行したがメキシカンプロレスでも偽息子は少々出現した。

ブルー・デーモンは卍固めの原型となった「プルポ=たこ固め」の創始者である。

そしてエンリケ・ジャネスもこれまた卍固めの原型といわれている「セラヘーラ」の創始者だ。

1940年代、次々にスターが出現。42年にデビューしたエル・サント、ブラック ・グスマン、

「タパティア(ロメロ・スペシャル)」の創始者リト・ロメロ、タルサン・ロペス、ゴリー・ゲレロ、

ボクシングライトヘビー級王者から転向したフィルポ・セグラ。

国民的英雄であったエル・サントはすでに故人だが死の直前の82年まで闘い、

84年、棺桶に入っても覆面を被っていた。

覆面は古代アステカの戦士たちが覆面を被っていたという伝統を引き継いであるのである。

現在EMLL はゴンザレス氏の孫サルバドーレ・ルッテロールIII世に引き継がれ、

世界最古の団体としてトラディショナルなルチャを守り続けている。

関連組織:EMLL・AAA(Asestencia Asesoria Administracion/1992年アントニオ・ペーニャが創設)


ペン チャックシラット(PENTJAK SILAT)

インドネシア・マレーシア地域を発祥とする伝統武術で約1000年の歴史がある

流派は数多く、ジャングルファイトで駆使する護身格闘術を重視する流派や

伝統演武を重んじる流派、競技色の強い流派等様々な種類が存在する。

インドネシア・シラットの各流派の組織母体として、

1948年に「インドネシア・シラット協会(IPSI)」が創設された。

更に、日本を含めて世界27か国に設立されている各国のシラット協会は

1980年に創設された「国際シラット連盟(PERSILAT)」に加盟し、世界大会も行われている。


・ペンチャックシラット=シラーク(PENTJAK SILAT SERAK)

シラーク・シラットはバ・パク・シラーク(BA PAK SERAK/『BA PAK』は父の意)が、約百年前に創始。

バ・パク・シラークが戦争で、片腕と片足を失ったので、

シラーク・シラットでは前足で全体重を支える立ち方を基本としている。

同じ理由で、シラーク・シラットはパワーでもスピードでも人数でも、

自分の方が不利だという前提に立ち、タイミングを重視した技によって勝ちを得る事を目標としている

理念的には中国拳法の八極拳と共通した部分も多い、特異な体術である。

又、日本に伝来されている對木佳史氏が指導する「シンラバ・シラット」の技法は

ブキティネガラとは大きく異なっており、福昌堂の書籍「マーシャルアーツ・マニア」で

「ブルース=リーも学んだ実戦的伝統武術」と云う見出しでシンラバ・シラットが紹介されいる

しかし、これは間違いでブルース・リーが研究したのはシラーク派シラットである。


・ペンチャックシラット=ブキティネガラ(PENTJAK SILAT BUKTINEGARA)

オランダ系インドネシア人のペンダカー・ポール=デトワーズ

(Pendekar Paul de Thouars/『ペンダカー』とは、一子相伝であるこの武術の「伝承者」の称号)

が1985 年にシラーク・シラットの初級の技を中心に、

ブキティネガラ(『Witness Continent(大陸の目撃者)』の意)を創出した。

シラーク・シラットの膨大な体系(武器術は勿論、霊的訓練まである)と比べると、

ブキティネガラは氷山の一角に過ぎないだろう。

技術的には、シラーク・シラットは素手を学んでから武器術を始める(カリと逆)のに対して、

ブキティネガラは基本的に素手のみで、肘や膝の当身が多く(カリと共通)、

「打・投・極」を兼備し、「インドネシアのコマンドサンボ」と呼ばれる事もあるそうだ。

練習内容は、「ジュルー」と呼ばれる1人型や、「サンボット」と呼ばれる2人型

1人或いは2人で行う各種のドリルが中心となり、自由組手や連続組手、

複数人を相手にした多人数掛け組手も行われる。

ブキティネガラの型はいわばシラーク・シラットのダイジェスト版だが、

非常に完成度の高い型との評価を受けている。


・シラットチャカ

シラット発祥の地・マレーシア王家に伝わる護身武術

ここ20〜30年間で一般人も修得が可能になったがイスラム教徒である事が条件となる


ボク シング(BOXING)

古代オリンピック正式種目でもあった拳のみで競うスポーツ的格闘技。

ギリシャ時代のボクシングは「プジリズム」と呼ばれており、グローブがなかった。

紀元前688 年第23回大会から採用され、拳に羊や牛の柔らかい革を巻いて戦っていた。

当時のオリンピックは身分の高い貴族にしか参加権が与えられておらず、

ボクシングは「貴族のスポーツ」であった。その為早い時期から整ったルールが敷かれていた

その後、紀元前394年にローマ皇帝・テオドシウスによる

古代オリンピックの中断と共に歴史の表舞台から姿を消す事になるが

ローマ帝国が支配する時代になると、ボクシングは拳に巻いた柔らかい皮ひもから

厚く硬い皮ひもの上に金属製の鋲をつけた物に変わり、また前腕を金属板で守り、

拳に金属や石を握ってパンチ力を強めるといった残虐性の高いモノへ変わるなど

「凶器」を着用して奴隷達に競わせる「殺人ショー」へと変化していった。

17世紀半ばのイギリスでボクシングは復活し、

18世紀前半には「近代ボクシングの父」ジェームズ・フィッグが現在に近いスタイルを作り上げた。

当時のボクシングにはグローブがなかったが、1747年ジェームズの弟子ジャック・ブロートンが

世界最初のボクシングルール「ブロートン・コード」を制定し、

「マフラーズ」と言う練習用グローブを考案した。

しかしグローブの着用は練習の時に限られ、試合では相変わらず素手で戦っていたと云う

1838年ブロウトンが作ったルールが大幅に改正され、現在とほぼ同じスタイルになり、

これ以後試合でもグローブの着用が義務付けられるようになった。

その後、ボクシングはアメリカに伝わり選手人口や技術的な面で飛躍的な発展を遂げる。

1880年にはハーバード大学でボクシング部が設立され、学生層へも浸透していく

ボクシングが日本に伝わってきたのは1921年で、

アメリカでプロボクサーとして活動していた渡辺勇次郎が「日本拳闘倶楽部」を設立

1926年には「日本アマチュア拳闘連盟 (現アマチュアボクシング連盟) 」が設立した。

当時ボクシング興行は始まっていたが、プロ・アマの区別は明確ではなかったのが、ア

マチュア拳闘連盟の発足と同時に区別されるようになった

プロボクシングの統括組織である「日本ボクシングコミッション」が設立されたのは1952年である

現在ではプロボクシングとアマチュアボクシングがあるが、

本当の意味でボクシングの理念を守っているのはアマチュアだという。

プロの場合は何よりも観客にアピールする試合が求められるが、

アマチュアは「打たれずして打つ」と云うボクシング理念を極める為にルール化されている為だ。


「古代オリンピック採用ルール」

・リングは無く、観客の輪の中で行われた

・試合はどちらかが闘争力を失うか、試合放棄の合図 (天を指差す) で終了

・拳には柔らかい皮ひもを巻く

「ブロートン・コードでのルール」

・リングは1辺1ヤードの正方形

・ダウンしている相手、及び下腹部への攻撃は禁止

・審判を2名選び、判定の意見を聞く


技術面では一撃必殺の空手等とは異なり、

ボクシングでは何発ものパンチにより脳や内臓にダメージを蓄積させ相手を倒す

フック・ストレート、・アッパーカット・ボディブロー等のボクシングの技術は、

長い歴史の間で非常に洗練され、現在では他の打撃系格闘技にも広く取り入れられている。

プロとアマの違いは、アマの場合ヘッドギア装着なのに対しプロは顔面がノーガード

勝敗の決定方法も異なり、プロは相手に与えたダメージがより大きい方に

アマの場合はダメージに関係なく、クリーンヒットの多い方に勝負の分があるのだ

更に大きな違いは、プロは相手を倒すテクニックに長けており

アマはいかにポイントを取られずに勝つといったディフェンス能力が重視される事であるだろう

またボクシングには体重差による階級制があり使用するグローブの重さもそれにより異なるのだ。


・WBA(世界ボクシング協会)

1921年にNBA(米国ボクシング協会)の名称で米国内の

アスレチック・コミッションの集合体として発足。1962年にWBAに改称

・WBC(世界ボクシング評議会)

1963年に米国主導のWBAに対し、欧州・第三世界の意見を取りまとめる

WBAの諮問機関としてメキシコで発足。68年からは独自の世界王者を認定するようになった

・WBO(世界ボクシング機構)

1987年WBAからドミニカ、プエルトリコを中心とするカリブ・エリアの

グループが脱退して作った世界タイトル認定団体。

・IBF(国際ボクシング連盟)

1983年5月、統一世界ミドル級王者マービン・ハグラー(米)が、

ウイルフォード・サイピオン(米)と行おうとしていたタイトルマッチを、WBAが認めない事に反発して

米国グループは米タイトルの公認団体だった「USBA(全米ボクシング協会)」の国際部を設立し、

この試合をタイトルマッチとして認定した。その後IBFと改称して独立

・OPBF(東洋太平洋ボクシング連盟)

1952年に日本、フィリピン、タイなどが中心となり「東洋ボクシング連盟」としてスタート

後にオーストラリアなどオセアニア圏、フィジーなどの太平洋圏の諸国も加盟し拡大された。

・IBA (国際ボクシング協会)

・IBC (国際ボクシング評議会)

・IBO (国際ボクシング機構)

・UBA (ユニバーサルボクシング協会)

・WAA (世界体育協会)

・WBB (世界ボクシング委員会)

・WBF (世界ボクシング連盟)

・WBU (世界ボクシング連合)

・WSO (世界スポーツ機構)

 

ボフ


モンゴル相撲とも云われている格闘技

モンゴルの人々はボフを民族の誇りとしモンゴルの象徴とみなしている。

ボフには土俵・マットと云った試合場はなく、蹴りに似た技術まで存在する

選手の事を「フテチ」と云い、ふくらはぎが隠れる大きなブーツを履き

「シヨーダク」と呼ばれる腰衣を着用し、「ゾドク」と言う上衣を着て戦う。


マー シャルアーツ(MARTIAL ARTS)

マーシャルアーツは直訳では「武道・武術・格闘技」に関係する物を指し

又、1980 年前後から格闘技流派としてアメリカンカラテのプロ版(プロ空手)の事を指す事となった

マーシャルアーツは場合によって「軍隊格闘術」を意味する場合もあり、

世界各国の軍隊や一部の警察で習得が義務付けられている

技術には目潰し・金的等も含まれ、各国格闘技の良い部分を取り入れ体系付けられている


・プロ空手

アメリカで行われているキックボクシング形式の格闘技

だが、その核の格闘技はキックボクシングでも空手でも無く、テコンドーに強く影響を受けている

朝鮮戦争後、二分した北朝鮮テコンドーと韓国テコンドーのうち

アメリカで勢力的に優位を占めたのが北朝鮮のテコンドーであった

そして北朝鮮テコンドーのスタイルが、キックボクシングの様にグローブ着用での試合へと変化。

このスタイルは「アメリカンカラテ」と呼ばれ、そのプロ版がマーシャルアーツ(プロ空手)なのだ。

アメリカンカラテとは空手・キックボクシング・テコンドー・カンフー等の打撃格闘技を融合させた物で

それをプロ興行として成立させているのがマーシャルアーツである

ルール上の最大の違いは、キックボクシングで認められているローキック、

クリンチしてからの膝蹴り肘打ちが、プロ空手では禁じ手とされている。

だが、ここ数年は団体によりキックボクシングに近い物になっている


マ ジャパヤット


ムエ カッチューア(ビルマ拳法)

中国拳法の流れを汲むミャンマー(ビルマ)の格闘術で、

そのスタイルはムエタイに酷似して折り、ムエタイの源流とも云われている。

現在のビルマ拳法はグローブを着用せずバンテージだけで戦う素手に近いスタイルを取っている

その為試合に流血はつきもので、見世物的な存在になっているようだ

又、ムエタイとの交流試合も行っているという


ムエ タイ(MUAY THAI)

別名タイ式ボクシングと呼ばれる500年の伝統を誇るタイの国技で、

「パンチ(トイ)・キック(テツ)・ヒジ(ソーク)・ヒザ(カウ)」の身体8ヶ所を駆使する立ち技系格闘技

政府公認プロスポーツとして認められ、賭博の対象ともなっている。


タイ国がシャムと呼ばれていた時代から続く伝統的な格闘技で、

その起源は空手同様、中国拳法にいき着く。キックボクシングの元になった事でも有名

発祥は、タイ人の祖先が中国南部から移住してきた際に

先住民から身を守る手段として作られたと云われている

ムエタイ技術の特色は、敵の足を狙うローキックと肘打ち、膝蹴りの3つにあるといえる。

特に接近戦で使われる肘打ちと膝蹴りの技術は多彩できわめて高度である

「首相撲」から繰り出される肘打ちは、一発で顔面に致命的ダメージを与え、

高角度に放たれる膝蹴りは顔面やボディに重い衝撃を与える。

現在、本場タイで行われるムエタイは「ルンピニー」と「ラジャダムナン」

と云う2 つの権威あるタイトルを頂点に、選手層も厚くレベルも高い。

又、ムエタイは仏教国らしい儀式的雰囲気も持ち合わせており、

試合前に行われる「ワイクー」という踊りにその一端を見る事ができる。

試合ルールは、判定基準と体重階級別制という点ではボクシングのそれとほぼ同様

ただ攻撃可能範囲が広く、目・金的以外への攻撃は全て認められ後頭部や背中への攻撃も可。

ムエタイ選手は、国家の経済性ゆえに他国の格闘技選手達よりハングリー精神が凄まじく

その為かムエタイは「立ち技最強格闘技」とまで呼ばれている

現在はオリンピック正式種目にしようとタイ政府が画策中。

因みに外国人初ムエタイチャンピオンは

1978年3月ラジャダムナンスタジアム・ライト級タイトルマッチに挑み、

4R・KOで王者奪取に成功した藤原敏男である。
 

ヤー ル・グレッシュ

カラクジャクのプロ版であるトルコ相撲。

「ヤール」は油、「グレッシュ」はレスリングを意味しており別名:オイル・レスリングとも呼ばれている

体にオイルを塗るのは第1に自分の身を守る為・第2に体を美しく見せる為だという。

試合は芝生の上で行われ試合時間は1時間。両肩が地面に付きフォールされたら終了

また、制度は体重制では無く身長制を採用していて、大会では勝ち抜き戦となる

下半身への攻撃は禁止の為勝敗がつくまでにかなり時間がかかってしまう

なので最終的にスタミナがある選手が有利となるのだ


ル タ・リーブリ(LUTA-LIVRE)

ブラジルにおけるフリースタイル格闘技

ブラジリアン柔術の最大のライバルとしてブラジル格闘技界に勢力を誇る

ルタ・リーブリ最大流派である「ブルノシーラ・アカデミー」道場主

カーロス・アウベルト・ブルノシーラによると、

ルタ・リーブリはマスター・タトゥという人によって約60年前に始められたそうだ。

ブラジル人のタトゥーは、グレコローマン・レスリングに腕・足の関節技と締め技を取り入れて

これを完成させたという。

当初は試合を持たない実戦の為の格闘技であったのだろうが例外としてバーリトゥードが存在した

だが、リオにおいてはプロのバーリ・トゥードが禁止されていた時期もあった様で

実力を測定するためにスポーツ化されたのが「ルタ・リーブリ・エスポルチーバ」である

(エスポルチーバはスポーツの意)

これは打撃を禁じ、ポジションによってポイントが与えられる競技である

また、ルタでは昇段は試合の実績ではなく、

選手の練習風景を1ヶ月間に渡り観察することによって決められる。

現在ルタ・リーブリは、統一した組織も誕生しようやく競技として確立されつつある。


レス リング(WRESTLING)

紀元前708 年古代オリンピック第18回大会から正式種目に採用されていた組技主体の格闘技。

その源流は古代エジプト時代をも越えた有史以前まで遡る事が出来ると云われている。

古代オリンピックは当時の貴族階級しか出場が認められていなかった為

ルールは極めて紳士的なものだった。明確なルールの元で闘う事こそが紳士だと思われていたのだ

打撃は勿論、下半身への攻撃を禁止した上で戦われていたのが当時のレスリングだ。

そして古代オリンピックが中断され、

ローマ時代に入り急激に廃れていったレスリングが再び復活するのが18世紀のイギリス。

イギリスでは軍隊の格闘技として古代オリンピックのレスリングを細々と継承していたが、

この時代の民衆に指示される新しい格闘技スタイル「キャッチ(キャッチ・アズ・キャッチ・キャン)」

として生まれ変わった。この「キャッチ」こそが現在主流となっているフリースタイルの原型である

その後古代オリンピックスタイルを継承するレスリングが再び登場したのは19世紀後半のフランス

この時代、一般的にレスリングといえば英国キャッチから生まれたフリースタイルだった。

だが1896 年第1回近代オリンピックがアテネで開催された時正式種目として採用されたのは、

フランスで復活した古代オリンピック時のスタイルだった。これをグレコローマンスタイルと云う


その他

・組技格闘技

基本的に打撃技を認めず投げ技と寝技(絞め・関節技を含む)を中心に体系立てられた格闘技

(例…柔道、レスリング、相撲など)

・総合格闘技

打撃技も組技も全て含んだ上で競技化された格闘技

(例…日本拳法、グレイシー柔術、修斗、サブミッションアーツ、大道塾空手など)

・打撃格闘技

パンチや蹴りといった打撃技を中心として競われる格闘技

(例…ボクシング、空手、キックボクシングなど)

・サブミッション

関節技を意味する用語だが、正しい日本語訳は「服従」「屈服」。

元々関節技の正式な英語用語は「ジョイント・テクニック」という


・グレコローマンスタイル

古代オリンピックスタイルを継承したレスリング種目の1つ。

1896年アテネにて開催の第1回近代オリンピックで正式種目として採用

グレコローマンはフランスで復活したスタイルである。

フリースタイルと違い下半身への攻撃及び相手の足を自分の足で掛ける行為も認められていない


・フリースタイル

古代オリンピックレスリングスタイルを継承していたイギリスの軍隊から、

18世紀民衆に指示された格闘技「キャッチ」を原型として、現在主流となったのが同スタイルである

20世紀の初頭にかけてはヨーロッパでレスリングといえばグレコローマンスタイルだったが、

アメリカに伝わった事でルールの制約が少ないフリースタイルが多くの人に好まれる事になった。

グレコローマンとのルールの違いは、下半身への攻撃が認められている事

故にフリースタイルではタックルや相手の足を攻める技が多く見られる。


・バーリトゥード

ポルトガル語で「すべてが有効(なんでもあり)」の意味。

制約の少ない試合の事を総称して呼び、「VT」と略称されて呼ばれる場合もある


・寸止め空手

空手の試合が始めて公式的に行われたのは1958年

元々空手には試合もなければ「組手」も存在しなかったが

戦後、空手が大学の体育会に取り入れられるようになると、

学生達は柔道や剣道を参考に試合化を模索し始め、「寸止め」方式が制定される。

この寸止め方式を採用する空手流派・団体のことを「寸止め空手」と呼ぶ。

全日本空手道連盟(全空連)を中心とする「寸止め空手」勢力の事を普通、

伝統空手または伝統流派と呼んでいる。


・フルコンタクト空手

一般的に「直接打撃制ルール」を採用する空手の事

いつしか極真会館の競技ルールが「実践空手」と呼ばれ始め、

1980年代極真会館から分派した新興勢力(芦原会館、士道館、佐藤塾、大道塾、正道会館etc)

を総称する言葉として「実践空手」にとって代わったのが「フルコンタクト空手」と云う名称である。

元々「フルコンタクト」は米国格闘技界で使われ始めた言葉で、

米国で「フルコンタクト・ルール」という場合キックボクシングの事を指す。


・少林寺流

剣道に似た防具を着用して戦う「防具ルール」を採用している空手


・套路(とうろ)

套路は、空手でいう所の「型」である。

套路練習の目的は基礎鍛練、内功、攻防技術の習得などであるが、

各門派の套路には先人が研究した技法の精華がおりこまれており、門派独自の風格を備えている。

同義語は拳套・盤架子


・架式(かしき)

架式とは拳法における姿勢のこと。拳法に置いて正しい姿勢を会得する事は非常に重要である

各門派における各々の姿勢は、いずれも試行錯誤を経て完成されたもので、

力学的・生理学的にも優れたものである。 同義語は架子・勢法


・天津鞴韜武門宗門(あまつたたらぶもんしゅうもん)

天津鞴韜秘文(蹈鞴とも記す)といえば、武門宗門の最高極意であり

古代史研究家・古武道研究家・古神道研究家達の避けては通れない極めて重要研究分野で、

未だ謎多き分野でもある。それは古来これを語る事は勿論、公表する事さえ戒められて来た為だ

種村匠刀は天津鞴韜武門宗門の第58世継承者であるが、

日本の武門宗門の発展・顕彰のためと使命感から、師伝として許される範囲で一般公開を決意した


1.天津鞴韜秘文(アマツタタラヒブミ)

「天津」とは、「天の」或いは「天道=大自然の」という意味で

「鞴韜」とは、武門と宗門の最高秘訣・奥義を意味する。高松師伝によると、

「天津鞴韜秘文の巻は宗教・武道・人道一切の宝典の始めにして弭摩王(ミマ)の建国の宝典也」

といわれ、この宝典が弭摩王から九代目の伝承者である蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇妃)を経て

斎部・久米(物部)・靫負・大伴・中臣(九鬼)の各氏族に伝えられたとされる。

紀元前700 年(一説に600年又は550年)頃に古代バビロニアのカルディア王国の弭摩王が、

従者3 名と共に日本に漂着し、大和の三輪山に住した。弭摩王は首飾勾玉伝の伝承者で、

72個の玉の付いた首飾を天照大御神(アマテラスオオミカミ)に献上した。

弭摩王の従者の日槍之命(ヒボコノミコト)は、詞韻より出た十種の神宝を持ち来たった。

詞韻とは、真理の意識(天真)による霊術をいう。

紀元前500 年(一説に550年)マレー民族の仏教徒・吠檀達(ベーダ)数百名が大和に侵入し、

天皇に反抗し戦いを挑んだ。皇軍は三輪山を要塞として戦った。

吠檀達側は破れ、降伏し磯城(シキ)に住することを許された。

これより神々集議し、国を護るために武器の使用法なども図ったのだ。こうして

紀元10 年頃までに神々が秘奥義を加えた神世文字の一巻「天津鞴韜秘文の一巻」が創られた

2.神明四維(シンメイシイ)の秘伝

「天津鞴韜秘文の巻」が、中臣家(九鬼家)に伝えられ「天津鞴韜中臣秘文(九鬼文書)」36巻となり

大伴家に伝えられ「天津鞴韜馗神之秘文(大伴文書)」18巻となり、

物部家に伝えられ「天津鞴韜謐心ァ琥録(物部文書)」22巻となり、

長髄彦(ナガスネヒコ)を経て兄の大日児長命(オオヒコナガノミコト)系の安部家に伝えられ

「天津鞴韜麟鳳秘伝(安部文書)」30巻となって、それ等を総称して「神明四維の秘伝」となった。

寛永17 年(1640)10月、この四家の秘文計106巻が3代将軍徳川家光の命により、

江戸紅葉山下の宝蔵に納められたそうだ。

3.東国武道と西国武道

大伴家伝の鞴韜秘文によると

「天武十一癸未年(683)十一月、安部隼人をして東国の兵に天津鞴韜秘勝彪底之巻を基礎として

剣・槍・体術・陣法等を教え習わしめ、また持統三己丑年(688)八月、大伴連隼人をして西国の兵に

高天原鞴韜五輪錫秘詆之巻を基礎として剣・槍・棒・矛・体術・兵法・陣営を教え習わしめた」と云う。

また、物部家伝の鞴韜秘文によると「持統女帝三己丑年(688)八月

諸国兵士に神伝馗韜の武芸を大伴旅人勅令を以って教授す。これ武道教授の始め也」とある。

4.天津鞴韜と高松壽嗣

鞴韜や天津鞴韜という言葉が一部の者に知られるようになったのは高松壽嗣の代からであり

高松氏は、神明四維の秘伝をことごとく継承し是を愛弟子達に分け与え後世に残した。


・萬川集海(ばんせんしゅうかい)

萬川集海は読んで字の如く大小様々の河川すなわち

忍術(主に伊賀・甲賀)の諸流派が海に集まるように作られたものであり、

それをひとまとめにした集大成の忍術百科辞典とも云える物である。

もともと忍術は口伝秘伝で伝えられるものだが、忍者が最も活躍できた戦国時代が終わり

天下泰平の徳川幕府時代には、忍者・忍術も用済みに近い存在となり

その忍術の伝承が危うくなった為、口伝秘伝の忍術を書に記すことになったと推測される

編者は三大上忍藤林長門の孫・藤林佐武次保武で

四代将軍・徳川家綱の治世である延宝年間(1673年〜81年)に記したそうだ

萬川集海は、総論篇・正心篇(倫理的側面)・将知篇(リーダーたる上忍の心得)

陽忍篇(頭脳プレー)・陰忍篇(アクション)・天時篇(天文学)・忍器篇(忍者のビジネスグッズ)

から構成されており、体系的に忍術を解説している点が特色とされている。

また、萬川集海の内容は甲賀流第十四世・藤田西湖氏により陸軍中野学校でも

教えられていたと推測されており、萬川集海の写本に内閣文庫本(国立公文書館蔵)が

ある事からして、その可能性は高いであろう。


・門外封術(もんがいふうじゅつ)

陸軍中野学校で教えられたと云われる古武術

門外封術では、フランケンシュタイナーの如く両足で相手の首を挟んで折りながら投げたり

小石を的確に投げる技術があったり、拳を徹底的に鍛えて相手の突きに対し同じく突きを放つ事で

相手の拳を破壊する技術などが存在したそうだ。

だが、この武術の詳細は殆ど無いため本当に実在したのか定かではない。


・肥田式強健術(ひだしききょうけんじゅつ)

明治16年〜昭和31年頃に創始者・肥田春充によって開発された心身を鍛える運動法

肥田式強健術の目的は、身体の鍛練を通じて単に筋骨系統だけではなく

内臓全般、全身血液循環、神経系統の強健・純化・統一・調和を図り

さらに進んで神経中枢の根本的統一作用を確実に把握することにある。

その基本的方法は、必ずしも従来の体育概念に束縛されることなく、

専ら身体の物理的ならびに心理的中心の統一的訓練を通じて、

神経中枢を浄化することを主眼としている。

また、強健とは「健康」を更に発展させた「完全な健康体」とでも言うべき物で

言わば東洋医学における健康体という事も出来るであろう。

「強健術」とは、この強健体を作り上げる運動や呼吸法の事で特別な機材を必要としないのだ




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