薙刀術流派

揚心流(ようしんりゅう)

特色:薙刀、柔・剣術。揚心流は主に二流派存在している
    中村左京を祖とする揚心流は揚心古流・三浦流と呼ばれている
     秋山義時を祖とする揚心流は鞍馬揚心流とも呼ばれ、
    鞍馬正坊・源牛若丸・武蔵坊弁慶等からの流れを汲んでいる


中村左京大夫義国<なかむらさきょうだいぶ よしくに>(生歿年不詳)
名前/ 三浦揚心
流派/ 揚心流(揚心古流、三浦流・流祖)
その他/ 甲州武田家の馬場美濃守頼房の次男として生まれ、長崎にて医師を勤めた
     中村左近将監正国から武田家伝来の大陰流柔術を学ぶ


秋山四郎左衛門義時<あきやましろうざえもん よしとき>(生歿年不詳)
名前/ 秋山義時
流派/ 揚心流(鞍馬揚心流・流祖)
その他/ 三浦揚心と同様に長崎で医師を勤める
     医学修行の為に漢に渡った際に、
     武官・博転なる人等から「活法二十八手」「捕手三手」・「柔術三手」を伝授されたと云う
     その後に自身で「三百三十手」を編み出した
     鞍馬揚心流は鞍馬正坊・源牛若丸・武蔵坊弁慶らの流れを汲んでいる

その他流派

竹内流(たけのうちりゅう)
特色:総合武術であり中には柔術(捕り手、小具足、組打ち)
    剣術・槍術・薙刀術・棒術などがある


竹内中務大輔久盛<たけのうちなかつかさだいすけ ひさもり>(? 年〜1595年)
流派/ 竹内流(開祖)
その他/ 美作国併和郷一ノ瀬城主


竹内常陸介久勝<たけのうちひたちのすけ ひさかつ>
流派/ 竹内流(2代目)
その他/ 久盛の実子で、父の業を継ぎ武者執行と名付けて出立、
     全国を遍歴して真剣勝負を流儀に補う
     文禄元年、秀次関白から常陸介に任じられ、元和六年春に流儀を後水尾天皇の閲覧に供し
     近衛関白から日下捕手開山の御綸旨を賜り紫縄を免された。


無眼流(むがんりゅう)

特色:様々な流派の他に、気術・体術を複合した流派
    特に気術には重点を置いている

三浦源右衛門政為<みうらげんえもん まさため>(1645 年〜1709年)
名前/ 三浦源右衛門
流派/ 無眼流
その他/ 小倉藩士
     心陰流等の十八流派の免許を取得し、他に体術・気術を複合し無眼流とした


九鬼無双流(くきむそうりゅう)
特色:右肩に刀を担ぐ様な構えから放つ特有の斬撃が特徴の流派

安芸国福島家剣術指南役の九鬼家の剣術。
左背に刀を下ろした状態からの強烈な斬撃「斬馬剣」が有名。


制剛流(せいごうりゅう)

水早長左衛門信正<みずはやちょうざえもん のぶまさ>(生歿年不詳)
名前/ 水早信正・信政・正信
流派/ 制剛流(居合・縄・柔術)
その他/ 豊臣秀吉に仕えていたと云う説もある


我流剣客

河上彦斎<かわかみげんさい>(1834 年〜1971年)
名前/ 河上彦斎、小森彦次郎
流派/ 我流
その他/ 肥後藩士。小森貞助の次男として誕生
     当初は小森彦治郎と名乗っていたが、河上源兵衛の養子になると河上彦斎に改名した
     兵法を宮部鼎蔵(みやべていぞう)に、文学を轟武兵衛に
     皇学を林桜園らに学んで勤王思想を抱く様になる。
     当時、尊王攘夷の同志を募っていた清河八郎に賛同し轟武兵衛と藩主の上京を画策。
     それを実現させると同行する様になる。その後、暫し京に滞在
     30歳になると藩選抜新兵となり、長州藩へ攘夷監軍使として赴く
     8月18日の政変で再度長州に下るが、
     池田屋事件が起こると上京し、尊王攘夷派の立て直しに奔走した。
     1864年、佐幕開国の公武合体論者であった佐久間象山を暗殺
     これを契機として「人斬り彦斎」と呼ばれる様になる
     禁門の変においては長州藩と共に戦うが、肥後藩が長州征伐の為出兵する事を知り
     説得する為に帰国をするが、捕えられ「鳥羽伏見の戦い」まで牢に繋がれた
     肥後藩が尊皇攘夷派に転向し彦斎は軍事掛に任命されるが、
     新政府の方針に憤りを感じて辞職する
     1869年、豊前鶴崎・警備隊長に就き有終館を設立。文武・操船術を教授した
     明治に移行しても攘夷思想を持ち、反体制を説いたり
     不穏分子を匿う等の事をした為に解職される
     その後、捕まり東京小伝馬町の獄に入れられる。1871年、斬首刑に処された

 


Back to ryuuha
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送