神道流系統

天真正傳香取神道流(てんしんせいでんかとりしんどうりゅう)

特色:剣術の他に、柔術・居合・棒・槍・薙刀・手裏剣・忍術・軍配法・築城法
    天文地理風水陰陽気学等の
    学術的なものから、神道・仏教(密教)等の修行法もある。
    神道流平法は昭和35年に日本武道として最初の無形文化財に指定されている
 
飯篠長威斎家直<いいざさちょういさい いえなお> (1387 年〜1488年)
名前/ 飯篠長威斎
流派/ 天真正傳新当流(香取神道流・開祖)
門人/ 松本備前守、塚原土佐守、諸岡一羽 etc
その他/ 我国の一番最初と云われる剣術兵法の流派を興した
     下総国(千葉県)香取郡多古町飯篠の生まれで、
     後に佐原市丁字字山崎、香取神宮北東隣接へと移った
     また、足利義政に仕えていたとも云われている
     帰郷後には刀槍の研究を進め、鹿島・香取の両神宮に祈って天真正神道流を開いた
     石碑は香取神宮の第2鳥居を左折して約200メートルの小高い場所(新坂)に奉られている
 

鹿島神陰流(かしましんかげりゅう)
 
松本備前守政信<まつもとびぜんのかみ  まさのぶ>(1468 年〜1524年)
名前/ 松本備前守尚勝
流派/ 鹿島神陰流(鹿島神流・開祖)
門人/ 上泉信綱 etc
その他/ 鹿島神流や直心影流の祖と云われている
     鹿島神宮の祝部で、常陸大掾家の宿老でもある
     飯篠長威斎に学び鹿島神陰流を創始
     31歳の時に上京し足利義尚に謁し、一字を貰い尚勝と改める
     ことに備前守は戦場に槍を合わす事二十三度、首級を上げる事百に余るという
     因みに塚原ト伝の秘太刀「一ノ太刀」は事実上彼の創案であるが
     これをト伝の養父・塚原土佐守安幹に伝え、そこからト伝へと伝わった
     大永四年、鹿島大掾家の内紛による戦で高天ヶ原にて戦死
 
鹿島新当流(かしましんとうりゅう)
特色:甲冑武道を基盤とし想定され、編み出された実戦的な古武道
 
国摩真人<くになづまひと>(紀元440 年頃〜?年)
流派/ 鹿島の太刀(開祖)
その他/ 今から約1574年前、鹿島神宮大行事大鹿島命の後商であった国摩真人は
     鹿島神宮境内に神壇を築き祈願を捧げて信託を受けて神剣「ソウ霊剣」の法則である
     神妙剣の位を授かり以後「鹿島の太刀」として
     大行事座主職ト部(うらべ)吉川家を中心に継承されていったのだ
 
塚原ト伝高幹<つかはらぼくでん たかもと>(1489 年〜1571年)
名前/ 新右衛門高幹、塚原ト伝
流派/ 鹿島新当流(51代目兼開祖)、無手勝流(開祖)
門人/ 彦四郎幹重(家督継ぎ)、小才治、北畠具教(一ツの太刀伝授)、足利義輝、
     佐野天徳寺了伯、塚原彦四郎秀幹、細川幽斎藤孝、松岡兵庫頭則方
    諸岡一羽常成(羽流)、真壁暗夜軒氏幹(霞流)、斎藤伝輝坊勝秀(天流)
     鹿島左衛門尉盛幹(鹿島神道流)、吉川春常 (鹿島新当流)、本間勘解由左衛門(本間流)
その他/ 伊藤一刀斎・上泉信綱と共に剣聖とうたわれる人物の一人
     鹿島神宮座主・ト部覚賢の次子として生まれる
     だが兄が家督を継いだ為、塚原土佐守安幹の養子となった
     兵法は義父の塚原土佐守から香取神道流を、実父のト部覚賢からは鹿島中古流を学んだ
     自流を流儀名から云うと鹿島神流・香取天真正傳神道流となり
     更に秘太刀「一ノ太刀」を会得している。
     また、鹿島神宮に一千日の参籠祈願をして神示を受けると共に「鹿島の太刀」の極意を悟り
     流派名を「鹿島新当流」と改めて生家ト部吉川家に継承され今日に及んでいる。
     ことにト伝は、「真剣試合は十九度、戦場に出ずる事三十七度、1度も不覚を取らず、
     疵1ヶ所も蒙らず、ただ矢疵を受ける事六ヶ所のみにて
     立ち逢う敵を討ち取る事二百十二人」(「鹿島史」)であるそうだ
     また36歳の時の鹿島城合戦に置いては、槍合わせ19度、高名の首をとること21首
     と云う事から見てもト伝は槍術にも優れていた事がよく判る。
     逸話では宮本武蔵を鍋蓋と菜ばしで軽くあしらったと云う伝説まで残っている
 
北畠具教<きたばたけ とものり>(1528 年〜1576年)
流派/ 鹿島新当流
その他/ 伊勢最後の国司で、多芸御所と呼ばれていた
     塚原卜伝門下の剣豪大名として有名で、同じく剣豪将軍足利義輝とも交友があったと云う
     だが織田信長の侵攻に遭い和睦したものの三男・信孝に家督を譲らされ
     信長の命で送り込まれた旧家臣達により居館・三瀬館にて暗殺されてしまう
 

羽流(はねりゅう)
 
師岡一羽斎常成<もろおかいっぱさい つねなり>(1533 年〜1593年) 
名前/ 師岡・諸岡一羽斎
流派/ 羽流(開祖)
道場/ 江戸崎に道場
門人/ 根岸兎角、岩間小熊 etc
その他/ 正しくは一波流と云う
     元・美濃の土岐氏の家臣師岡氏の末裔であり
     常陸土岐家の元で軍師を勤めていたが途中、土岐家没落の為に隠遁したらしい
     剣は飯篠長威斎の門弟である父・師岡筑前守守常に神道流を学び、   
     自身では新当流・塚原卜伝直門として修行し「一の太刀」まで修得している
     やがてソレを生かし江戸崎に道場を建てる
     一羽斎の剣撃は凄まじく、同じく撃剣家で有名な飯篠長威斎の再来とまで謳われた
     彼の実力に伴い道場も隆盛を極めるが、当時では不治の病と云われていた
     癩(らい)に侵されその形相から次第に弟子は去ってしまう
     彼は妻子をもっておらず、なんとも孤独な剣士であった

 
微塵流(みじんりゅう)
 
根岸兎角<ねぎし とかく>(生歿年不詳)
名前/ 根岸兎角、信太大和守朝勝
流派/ 微塵流(開祖)
門人/ 長谷川玄ト(棒術微塵流) etc
その他/ 諸岡一羽の門人で黒田長政に仕えていたが、辞去する
     一羽斎が病床についたのを機に出奔し江戸で微塵流を開く
     師の死後、その門下である岩間小熊らに勝負を挑まれ敗れてしまう
     その後も黒田家からの合力は続き、やがて中国地方で病死したという
 
霞流(かすみりゅう)
特色:霞流の「霞」とは対峙する敵が、霞に覆われて「死に体」に見える時、
    自身は迷う事なく敵を打つ状態だと云う
 
真壁暗夜軒氏幹<まかべあんやけん うじもと>(1550 年〜1622年)
名前/ 道無(法名)、闇礫斎、小次郎(通称)
流派/ 霞流(開祖)
門人/ 桜井霞之助(霞流) etc
その他/ 上州真壁城十七代当主・真壁安芸守久幹の長男として生まれる
     また父・久幹は神道流の使い手でもある
     暗夜軒は、佐竹氏の客将・大田三楽斎らと供に小田氏・北条氏の戦にて、
     その闘い振りから「夜叉真壁」「鬼真壁」と呼ばれた
     「周囲八寸/長さ一丈余」の赤樫に筋金を入れ、戦場では敵兵を力のままに薙ぎ倒した
     高弟・桜井霞之助が、天流・斎藤伝鬼坊に敗れた事により
     伝鬼坊を謀殺したのは、恨みを持った暗夜軒であったとも云われている

 
神道夢想流杖術(しんどうむそうりゅうじょうじゅつ)
特色:杖・剣術/鹿島・香取の流れを汲む
 
夢想権之助勝吉<むそうごんのすけ かつよし>(生歿年不詳)
流派/ 神道夢想流(流祖)
その他/ 常洲鹿児島生まれ
     霞流を桜井大隈守吉勝に学んだ
     また宮本武蔵と勝負して敗北しているが、再度立ち会った時には勝利したとされている
     (その時の勝負が「形」となって残されている)
 

天流(てんりゅう)
 
斎藤伝輝坊勝秀<さいとうでんきぼう かつひで>(1550 年〜1587年)
名前/ 井出判官入道伝鬼坊
流派/ 天流(天道流・開祖)
門人/ 村上権左衛門(村上天流) etc
その他/ 常陸真壁郡の人
     新当流を塚原ト伝に学んだ
     門を去った後のある夜明けに武芸者が通り掛った、その際斎藤が流名を尋ねてみた
     すると武芸者は黙さずただ天のみを指した、是が天流の名の由来であると云う
     その後朝命により紫宸殿で「一刀三」なる太刀を展覧に供している
     帰郷後、霞流・桜井霞之助と立会い斬り倒してしまう
     その為桜井の父・大隈守らの恨みを買う事になり、再度決闘を受ける事となる
     だが、決闘場である不動堂で待ち伏せした約20人の勢に一斉に矢を放たれ
     奮闘ながらも死を迎えた

 
三徳願立流(さんとくがんりつりゅう)
 
鈴木五左衛門重定<すずきござえもん しげさだ>(生歿年不詳)
名前/ 鈴木重定、一翁斎
流派/ 三徳願立流(三徳流・開祖)
その他/ 願立流・伊藤善内の門弟でもある




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