新撰組 /天然理心流(しんせんぐみ/てんねんりしんりゅう)

特色:武州多摩に広まった農民剣法
    木刀による堅固な形稽古を重視し、根と力を合体させた剣理を「気組」と称した
    極意には「浮鳥の位」がある
    「天に象(かたど)り地に法り、以て剣理を究める」を真髄とする

近藤内蔵助長裕 <こんどうくらのすけ  ながひろ>(生歿年不詳)
名前/ 近藤内蔵助、
流派/ 天然理心流(開祖)
道場/ 市ヶ谷柳町に道場
その他/ 飯篠伊賀守家直の神道流から派生


近藤三助方昌 <こんどうさんすけ よしまさ>
流派/ 天然理心流(二代目)
その他/ 武州多摩郡戸吹村の名主・坂本戸右衛門の長男として安永3年(1774年)に誕生
     村は「上郷・中郷・下号」に別れ、三助の生家の坂本家は戸吹村中郷の名主であった。
     天然理心流を内蔵之助に学ぶ様になると家督を継ぐ身にも関わらず剣術に没頭
     三助は内蔵之助の中でも特に剣技がずば抜けて優れ、
     指南免許を受けると故郷の戸吹村で剣術を教えていた。
     そして、内蔵之助は死に際に三助に気合術の奥義を授けたと云われている
     内蔵之助没後三助は名主役を全て父・戸右衛門にまかせて、
     近藤姓に改名して天然理心流宗家二代目を継ぎ、
     文政2年(1819)4月26日46歳で没するまで剣術一筋に生き、
     弟子育成と天然理心流の改良を務め内蔵之助の代より更に奥の深いものとした


近藤周助邦武 <こんどうしゅうすけ くにたけ>
名前/ 関五郎(幼名)、周平、周斎(隠居後)
流派/ 天然理心流(三代目)
門人/ 近藤勇(新撰組局長)土方歳三(新撰組副長)沖田総司(新撰組二番隊組長)
    井上源三郎(新撰組六番隊組長) etc
その他/ 武州多摩郡小山村三ツ目の名主・島崎休右衛門の三男として寛政4年(1792)に誕生
     20歳の頃に戸吹村の近藤三助道場に入門。その後天然理心流宗家を継ぎ
     門弟は、八王子から日野・府中・上石原にかけて小道場が作られ
     後半には門弟の数は300人に達したといわれる。
     江戸市谷柳町「試衛館」道場も彼が開設。
     天然理心流第四代を近藤勇に継ぐと、周助は幕末期を四谷舟板横丁の隠居所で過ごし
     慶応3年10月28日、享年76歳の天寿を全うした。墓は港区芝公園3丁目金地院
 

近藤勇昌宣 <こんどういさみ まさよし>(1834年〜1868年4月25日)
名前/ 近藤勇、宮川勝五郎、島崎藤太、島崎勇、大久保大和、近藤内蔵之助、近田勇平
流派/ 天然理心流(四代目)
所持刀/ 長曽根虎徹
道場/ 牛込甲良屋敷の試衛館
門人/ 土方歳三(新撰組副長)沖田総司(新撰組二番隊組長)
   井上源三郎(新撰組六番隊組長)近藤勇五郎(養子) etc
その他/ 新撰組局長、幕府若年寄格
     慶応4年(1868)4月25日に打ち首獄門


芹沢鴨光幹<せりざわかも こうかん>(1827 年〜1863年9月18日)
名前/ 芹沢鴨、光幹、龍寿(幼名)、木村継次、下村継次、芹沢光幹
流派/ 神道無念流
その他/ 新撰組局長首座
     文政十年(1827)常州芹沢城城主・後裔芹沢貞幹の三男として誕生
     安政六年、勅書返納事件の際には長岡で阻止運動を起こした天狗党の一員だった
     文久三年二月、新見錦・平山五郎・平間重助・野口健司らと浪士組に加盟、
     三番小頭となり天然理心流の面々を引率した。
     江戸出立の三日目の本庄泊りとなった時、先番宿割りを任されていた近藤勇が
     芹沢らの宿割りを落としてしまい芹沢が激怒。大規模な焚火をする事件を引き起こした
     この件で、彼は小頭を罷免されるが遂には取締並出役手附までなってしまう。
     入洛後、浪士組本隊が江戸帰還が決定するとそれに同調せずに、
     3月10日に近藤勇らと共に京都残留を希望する
     12日会津藩と接触し、新選組の母体となる壬生浪士隊を結成し筆頭局長となる。
     その後、4月には平野屋、6月には加嶋屋、7月には鴻池という大阪の豪商で金策を行い
     その間6月に大阪力士との乱闘事件や島原の角屋への営業停止処分等があり
     遂には8月に大和屋襲撃事件を起こしてしまい会津藩より近藤らに排除命令がおりる
     八月十八日の政変の際は、隊士50名余を率いて御所に出動し浪士隊の評価を高めたが、
     文久三年九月十六日八木邸で寝込みを襲われて斬殺された
     墓碑には死亡日「十八日」とあるが、これは葬儀の執行日であろう
 

新見錦 <にいみ にしき> (1836 年〜1863年)
名前/ 錦山
流派/ 神道無念流
その他/ 新撰組局長
     常州水戸の脱藩者で、天保七年生まれ          
           局長筆頭・芹沢鴨と同門の神道無念流・岡田助右衛門の門人で免許皆伝を得ている         
           文久三年二月、上洛の際は28歳で三番組小頭となり、沖田総司の義兄・林太郎や
     井上源三郎らを引率した。浪士組本隊が江戸帰還が決定すると芹沢鴨らに同調し
     京都残留を希望し、壬生浪士組の三番目の局長として役に就くも
     普段の素行が酷く悪かった為、祇園新地の貸座敷「山緒」にて
     近藤、土方らに切腹をさせられた。


土方歳三義豊 <ひじかたとしぞう よしとよ>(1835 年5月5日〜1869年5月11日)
名前/ 土方歳三、内藤隼人、藤原義豊
流派/ 天然理心流
所持刀/ 和泉守兼定
その他/ 新撰組副長、幕府寄合席格、蝦夷共和国陸軍奉行並
     天保六年(1835年)5月5日武州多摩郡桑田村石田で
     豪農・土方隼人義諄と母・恵津の四男として誕生(6人兄弟)
     父は歳三が生まれる前に他界。母も天保十一年に他界し次男の喜六夫婦に育てられた。      
           弘化二年、江戸上野の伊藤松坂屋に奉公に出されるが番頭と喧嘩になり帰省
     その後も大伝馬町の呉服屋に奉公に出されたが長続きはしなかった。
     以後、家伝の秘薬「石田散薬」を行商に出ながら、剣術道具を担ぎ独学で剣術を学び
     姉・のぶが嫁いだ日野宿寄場名主佐藤彦五郎宅に身を置く事となった。
     天然理心流入門は嘉永四年頃で、安政六年には天然理心流近藤周助の門人となり
     江戸道場に寄宿する。文久三年、幕府呼びかけの浪士隊に近藤らと加盟上洛し
     浪士組江戸帰還に従わずに、芹沢らと京都に残留する
     やがて会津藩松平肥後守御預り浪士隊となり副長職に就く。
     有名な局中法度を考案し、隊士の役割までも作成した
     その年に芹沢、新見らを粛正して隊内の規律を強める
     元治元年六月には、古高俊太郎を捕らえ前川邸で拷問の末
     御所焼き討ちの為の密会を知り不定浪士を捕縛、世に言う「池田屋事件」である。
      慶応三年には、御陵衛士を拝命し隊を分裂した伊東甲子太郎らが
     局長暗殺計画を企てているのを察知し油小路に誘いだして四人を斬殺。
     慶応四年一月の「鳥羽伏見の戦い」では新選組全軍の指揮をするが近代兵器に惨敗
     江戸に帰還し、勝海舟から甲府鎮圧を言い渡されると
     「内藤隼人」に改称して甲陽鎮撫隊を組織して甲府城に向かった
     形勢不利を見て神奈川・菜葉隊に救援を求め単身馬を飛ばすが功を奏せず、
     敗戦後は隊士を集めて五兵衛新田(現足立区綾瀬)に身を置き再起を図った
     だが、新政府軍に包囲され近藤勇が投降。土方は勝海舟に助命を乞うも功を奏せず
     幕臣・大鳥圭介の率いる軍に参入し、参謀に任命されると宇都宮城を攻略するも
     23日の防衛戦で足の指を撃ち抜かれ、新選組を山口次郎に委ねて
     会津へ向い七日町の清水屋で養生した。
     その時期に近藤の斬首を聞き、この地に墓碑を建てている
     7月に復帰し、新撰組と合流するが八月の母成峠の戦いに敗れ
     米沢から仙台に出て榎本武揚と出会い新撰組を再編成して10月に蝦夷地へ向う
      上陸後、700の兵を率いて福山城を陥落。
     大雪の中を強行し江差を非常に優れた戦術で看破し平定する
     12月には蝦夷共和国が誕生し、陸軍奉行並に選出されている
     明治二年、北上してきた政府軍を破り、甲鉄艦奪取の為に奇襲するが失敗
     4月、新政府軍は五陵郭に向かって進軍。
     土方は一度は台場山で大勝利を収めるも孤立状態になり、仕方なく撤退する
     明治2年(1869)5月11日箱館(函館)で官軍に腹部を狙撃され遂に果てる
     また、死の1ヶ月前に小姓の市村鉄之助に故郷へ写真を送らせている
 

山南敬助知信 <さんなんけいすけ とものぶ>  1833(天保4年)〜1865(慶応元年)
名前/ 山南敬助、藤原知信、啓輔、三南敬助、啓助、三郎、三治郎、三男敬介、勇助
流派/ 北辰一刀流、天然理心流
その他/ 新撰組副長、総長
     天保四年奥州仙台に生まれ、浪人となり江戸へ出府する。  
     出府後、北辰一刀流を学び免許皆伝の腕前となる。
     天然理心流道場に入門したのは、万延元年(1860)頃だろう
      他のメンバー同様京都に残留し、
     浪士隊内の覇権争いにも参加し近藤・芹沢と共に殿内の暗殺に加担。
     土方とともに副長職に就いた。山南は「親切者で温厚」な人柄で有名である
     勿論、山南も芹沢暗殺に加担をしている。
     だが、岩木枡屋事件を契機に山南の詳細は、途絶えてしまう
      「新選組行軍録」にも山南の名は見当たらず、池田屋事変にも参戦していない。
      元治元年、同門の伊東甲子太郎が入隊。だがその四ヶ月後に山南は切腹し果てるのだ
      伊東に失望したとも、屯所移転の反対や土方との確執とも様々な噂が飛ぶが
     慶応元年2月23日に屯所で切腹し果てている。
 
伊東甲子太郎武明 <いとうかしたろう たけあき>(1835 年〜1868年)
名前/ 伊東甲子太郎、宇田兵衛、藤原武明、大蔵
流派/ 北辰一刀流
その他/ 新撰組参謀、御陵衛士隊長
     天保六年、常州志筑の鈴木専右衛門の長男として誕生
     江戸に出た伊東は深川佐賀町の北辰一刀流伊東誠一郎の後を継ぎ道場主になった。
     この道場も他の道場と同じく攘夷の論争に明け暮れていた。
      同門で隊士募集の為に下府していた藤堂平助に勧誘され、
     同志と共に京に上ったのは元治元年十月のことだった。
     伊東はこの年干支に因んで甲子太郎と名を改めた。
     慶応三年三月、孝明天皇の御陵衛士を拝命し、山陸奉行戸田の傘下に転ずる。
     新選組の分離に成功したのである。
     土方は、監察方を使い伊東の入隊時から調べさせており、
     伊東側は、間者を残して動向を探っていたが、土方も斎藤一を送り込んでおり、
     逐一報告されていた。伊東らは三条城安寺から五条東詰善立寺に投じたのち、
     六月八日東山高台寺の月真院に屯所を構え、高台寺党と呼ばれた。
      遂には、新選組吸収を考案し近藤暗殺を計画する。
     それを間者として潜り込んでいた斎藤一にもたらされ、高台寺党壊滅を計画し
     隊の運営資金を新選組に依頼していた件を利用し、
     近藤の側女宅に呼び出され酒宴の後、帰宅途中の油小路木津橋通りで、
     大石鍬次郎らに闇討ちに遭い本光寺門前の台石に腰を下ろし「奸賊ばら」と叫び絶命

沖田総司房良 <おきたそうじ かねよし>(1842 年〜1868年)(天保13〜慶応4)
名前/ 沖田総司、惣次郎春政(幼名)
流派/ 天然理心流(近藤勇が後継ぎに考えていた程の腕前)
得意技/ 三段突き
所持刀/ 加州金沢住長兵衛藤原清光 別名:包食清光
     (一般認知では菊一文字となっているが、
      当時でも国宝級とされ刃こぼれも酷いであろう代物なのでほぼ100%有り得ない)
その他/ 新撰組副長助勤一番隊組長
     天保13年(1842)奥州白河藩阿部能登守正備の臣・沖田勝次郎の子として誕生
     9歳で近藤勇道場・試衛館の内弟子となり、剣術に励む
     文久3年(1863)試衛館の仲間と共に浪士組に加盟上洛、新選組の創始メンバーとなる。
     池田屋事件では近藤隊に配属され、長州・吉田稔磨と肥後・松田重助の二人を
     あっさり斬り倒すも持病が悪化し喀血・昏倒したため戦線離脱する。
     一番隊の組長として多くの討幕派を斬る傍ら、
     芹沢派の粛正や山南敬助の切腹、その他多くの同志の処罰も行った
     慶応3年(1867)、屯所が西本願寺から不動堂村へ移った頃から持病の肺結核が悪化。
     その為、「鳥羽伏見の戦い」には参戦できず、江戸引き揚げと同時に療養生活に入る。
     慶応4年(1868)5月30日、千駄ヶ谷の植木屋植甚宅の離れで
     近藤の安否を気遣いながら息を引き取った。
     享年27歳(現行年齢では26歳)。
 
永倉新八載之 <ながくらしんぱち のりゆき>(1839〜1915)(天保10年〜大正4年)
名前/ 杉村義衛、永倉新八、栄治・栄吉(幼名)、源(本姓)
流派/ 神道無念流
所持刀/ 播州住手柄山氏繁
その他/ 新撰組副長助勤二番隊組長
     天保十年、松前藩士長倉甚治の次男として江戸下谷三味線堀の藩邸長屋に誕生
      剣術を神道無念流・岡田十松に学び、心形刀流・坪内主馬にも剣を学んだ。
     天然理心流・近藤勇らと親交を結び、浪士隊に参加。
     京都に残留し副長助勤、のちに二番隊組長の役に就いた。
     池田屋事件では、近藤らと斬り込み目覚しい活躍をするも
     刀を折り、指の付け根を斬られてしまう。が、20両の褒賞金を賜っている
      殆どの捕縛事件に出動し、慶応三年の「油小路の事件」にも参戦している
     その時、かつての同志・藤堂平助を見逃そうとしたが上手くはいかなかった
     「鳥羽伏見の戦い」に置いては、奉行所から薩摩軍に決死の攻撃をするも
     近代兵器に惨敗し、鎧の重さの所為で塀を登れず島田に引き上げて貰ったそうだ
      その後、甲州鎮撫隊にも参戦したがやはり惨敗に終り四散。
     江戸に戻って、近藤に再起を進言するも受け入れられず決裂
     袂を分かち、旧友である幕臣・芳賀宣道を隊長に「靖兵隊」を創立し副長となった
     その後、藩医・杉村松柏の婿養子となり明治三年に北海道福山に行く
     明治八年には家督を継いで名も杉村義衛と改称している
      九年、近藤の首を探し出し東京板橋に近藤・土方の墓碑を建立し隊士百余名の名を刻む。
      十五年、樺戸監獄に剣術師範として招かれる。四年後には辞職して上京
     函館に赴き、土方・伊庭らの碧血碑に弔い
     米沢で雲井竜雄の足跡を尋ね、牛込にて道場を開いた。
      三十二年に小樽に帰り、ときおり札幌で剣術指導を行ないながら余生を過ごす
      大正四年、永倉新八はこの世を去る
 
斎藤一 <さいとうはじめ>(1844〜1915)(天保15年〜大正4年)
名前/ 山口一、斎藤一、山口二郎、一戸伝八、藤田五郎
流派/ 無外流
所持刀/ 池田鬼神丸国重
その他/ 新撰組副長助勤三番隊組長
     天保15年1月1日に明石藩足軽山口祐助の次男として生まれる
     1862年足軽を誤って殺害 京都に逃れ太子流剣術の吉田某の道場に身を寄せる
     翌年3月12日に会津藩預かり壬生浪士組の隊士募集に応じ、京都にて入隊
     池田屋事変では土方側に属し、池田屋到着後は屋内にて戦闘
     金十両・別段金七両を受けて、12月の編成で四番隊組長に任命される
     慶応元年の夏の編成では三番隊組長と共に剣術師範となる
     油小路事件に関しては、慶応三年三月から高台寺党(御陵衛士)として
     新撰組から分離した伊藤甲子太郎に間者として同行し、
     建白書に連盟するなどして正体を隠し通す
     その間の動きを全て近藤達に知らせ、ある日伊藤の机から金を盗み出し逐電する
     この事から判る様に彼はプロのスパイの術を持っていたのだろう
     維新後は別人として警視庁に入り警部まで昇格、西南戦争にも参加
     警視庁退職後は東京教育博物館書記看守、女子高等師範学校の庶務兼会計係を勤める
     大正4年9月28日東京の本郷・真砂町にて胃潰瘍で死去。
     床の間で家族の見守る中、目を見開き正座したまま亡くなる
 
松原忠司誠忠 <まつばらちゅうじ のぶただ>(? 年〜1865年9月1日)
名前/ 松原忠司
所持刀/ 加州住藤島友重
その他/ 新撰組副長助勤四番隊組長
     島田魁の記録では播州小野とされているが、永倉新八の記録では大阪浪士とされている
     島田と同じく最初の募集により新撰組に参加。
     池田屋事件にも参戦し、十五両の褒賞金を賜っている。
     文久三年八月の政変では、坊主頭に白鉢巻をし大長刀を担ぎ
     仙洞御所前や禁裏御所南門の警備にあたり「今弁慶」の異名をとった
     壬生村において、親切者は「山南と松原」と言われるだけあって隊士にも優しかった。
     松原の最後には不明点が多く、
     慶応元年九月一日壬生天神横丁の裏長屋で未亡人・安西某と心中した。
     などと信憑性の薄いものが多く真実は定かではない

武田観柳斎徳裕 <たけだかんりゅうさい とくびろ>(? 年〜1867年6月22日)
名前/ 武田観柳斉
流派/ 北辰一刀流
所持刀/ 越前住常陸守兼植
その他/ 新撰組副長助勤五番隊組長
     出雲浪士で文学師範として、尾形俊太郎や毛内有之助らの師範頭を務めた
     池田屋事件にも近藤組で参戦し、斬り込み隊の一員となって褒賞金20両を賜っている。
      その後も明保野亭事件の指揮をしたりしている。
     新撰組が外国戦術を取り入れ始めると、武田の甲州流軍学は肩身が狭くなり
     次第に武田の居場所は無くなっていった。やがて薩摩との接触がバレ、
     竹田街道銭取橋付近にて斎藤一、篠原泰之進に殺害されたと云われている。

井上源三郎一武 <いのうえげんざぶろう かずたけ>(1829 年〜1868年1月5日)
名前/ 井上源三郎
流派/ 天然理心流(近藤周助弟子)
所持刀/ 奥州白河住兼常
その他/ 新撰組副長助勤六番隊組長
     文政十二年3月1日、多摩郡日野宿八王子千人同心井上藤左衛門の三男として誕生
      長兄、次兄と共に天然理心流近藤周助の弟子となる。
     土方歳三の姉・のぶが嫁いだ、佐藤彦五郎の道場へ通い撃剣の修行に励んだ。
      文久三年、近藤らの浪士隊加入に参加し総司の義兄・林太郎と同じ三番隊に配属された。
      (小頭は新見錦)新選組結成後は副長助勤、六番隊隊長となり活躍する。
     元治元年の池田屋事件では、近藤らと斬り込み褒賞金十七両を授かる。
      慶応四年、鳥羽伏見の戦いで淀千両松に甥の泰助と共に布陣。
     激戦の中、銃弾により討死にした。

谷三十郎供国 <たにさんじゅうろう ともくに>(? 年〜1866年4月1日)
名前/ 谷三十郎
流派/ 神明流剣術指南(弟の万太郎は種田流槍術指南)
その他/ 新撰組副長助勤七番隊組長
     備中松山藩主板倉勝静の家臣で、剣術師範谷三治郎の長男として誕生
     安政三年十月主君の勘気に触れてお家断絶。
     大阪で弟・万太郎と共に南堀江町に武芸道場を開く。
     三十郎は神明流剣術を指南し、万太郎は種田流槍術を指南する。
     池田屋事件にも兄弟で参戦。十七両の褒賞金を賜っている。
     大阪の石蔵屋事件でも、兄弟で斬り込んでいる。
     慶応二年四月一日、祇園坂下で頓死している。斎藤一に討たれたとも、
     酒席の喧嘩とも脳卒中ともいわれているが、真相は謎のままである。
 
藤堂平助宣虎 <とうどうへいすけ のぶとら>(1844 年〜1867年)
名前/ 藤堂平助
流派/ 北辰一刀流
所持刀/ 上総介兼重
その他/ 新撰組副長助勤八番隊組長
     天保十五年江戸に生まれる。
     北辰一刀流目録の腕前で、本人は藤堂和泉守の落胤と言っていたが定かではない。
     試衛館道場によく出入りしていて、皆と稽古して汗を流した。
     文久三年、浪士隊上洛に、近藤らと共に参加する。
      元治元年、池田屋事件では近藤らと共に斬り込み鬢を撃たれ傷を負うが
     活躍を認められて、褒賞金二十両を賜った。
     元治元年十月江戸に下り、伊東らの加盟の仲介をする。
      慶応三年三月十日伊東らと御陵衛士を拝命して新選組から分離する。
     同年十一月十八日に七条油小路で新選組と交戦、永倉が逃げ道を空けたが
     そこに三浦恒次郎が斬りかかり交戦し、逃げ遅れて数名により斬殺される。
     亡骸は壬生光縁寺に埋葬されたが、
     慶応四年に鈴木三樹三郎らの手で東山戒光寺に改葬された。
     先駆け先生と呼ばれた程に、一番に斬り込む度胸の良さが
     逃げを許さずに命取りなったのであろう。
 
鈴木三樹三郎忠良 <すずきみきさぶろう ただよし>(1837 年8月15日〜1919年7月11日)
名前/ 三木荒次郎、和泉、三木三郎、鈴木三樹三郎(伊藤甲子太郎の実弟)
その他/ 新撰組副長助勤九番隊組長
     天保八年七月十五日、志筑藩目付鈴木専衛門忠明の次男として誕生
     同藩中小姓格寺内増右衛門の養子になるが、
     離縁され鈴木に復そうとしたが母に拒まれ、三木荒次郎と称した。以後、和泉・三木三郎
      元治元年十月十五日伊東らと上洛し、新選組に加盟した。
     このときは、三木三郎と称し九番隊隊長に任じられた。
      慶応三年、御陵衛士を拝命の折り和泉と称した。
     同年十一月十八日実兄伊東甲子太郎が油小路で斬殺され、
     同志、篠原泰之進・藤堂平助・加納道之助・毛内有之助・富山弥兵衛・服部武雄らと
     亡骸を引き取りに、出向いた処を新選組の攻撃を受けたが、乱刃をくぐり抜けて脱出。
     薩摩藩に匿われた。翌年に伊東らの亡骸を改葬した。
     同年、赤報隊に参加したが、偽官軍事件に連座され直ぐに釈放された。
     その後鶴岡警察署から、酒田警察署長を歴任。茨城県新治郡石岡町に隠棲。
     大正八年七月十一日没した。
 
原田左之助忠一 <はらださのすけ ただかず>(1840 年〜1868年)
名前/ 原田左之助
流派/ 種田流槍術
所持刀/ 江府住興友
その他/ 新撰組副長助勤十番隊組長
     天保十一年、伊予松山藩の足軽原田長次の嫡男として誕生
     安政二年か三年頃に江戸へ出て、三田の松山藩邸で中間となる。
     その後、郷里に戻った話に、切腹の傷痕が真一文字に残っていた所から、
     丸一文字を定紋にした。その後、出奔し江戸に出て試衛館の食客になり、
     文久三年に浪士隊に近藤らと共に、参加し上洛する。
     元治元年、池田屋事件にも参戦し、十七両の褒賞金を賜った。
     三条制札事件では十番隊を引き連れて出動し奮闘、二十両の褒賞金を賜っている。
     慶応三年十二月七日天満屋騒動では、土佐の坂本、中岡殺害の報服として
     海援隊陸奥陽之助ら十六人が、油小路花屋町の天満屋に宿する
     紀州藩用人三浦休太郎を襲撃。警備の任に就いていた新選組斎藤一、原田左之助と
     暗闇の中で乱闘となり、機転を利かせた原田が土佐弁で「きゃつを討ち取った」と叫び、
     その一言によって襲撃者は引き上げていった逸話がある。
      慶応四年「鳥羽伏見の戦い」を経て、甲州勝沼の戦いに参戦するが敗戦し江戸に逃げる
      その後に新選組を離れて、永倉新八と行動を共にしたが山崎宿で袂を分かち江戸に戻る。      
           江戸では、彰義隊に参加し官軍と戦い討ち死にする。
     説では、大怪我を負い、深川の旗本屋敷に収容されたが、翌々日亡くなり
     同地区の寺に埋葬されたとされるが、記録が残っておらず、不明な点が多い。
     逸話では、彰義隊に参戦せず満州国に逃れて馬賊として暴れ
     満州事変の際に日本軍が進出した時に、兵隊に原田左之助であると語った話がある
     また、原田左之助の名が残っているのは、坂本殺害事件の時に現場に残った刀の鞘と
      「こなくそ」という掛声が、伊予の方言であり坂本殺害の容疑者として、
     名が残っているからである。慶応四年五月十五日か十七日没
 
山崎烝<やまざきすすむ>(1833? 年〜1868年)
その他/ 新撰組副長助勤浪士調査役兼監察
     子母沢寛の「新選組始末記」では
     大阪の針医林五郎左衛門の倅で山崎烝自身が針医者だったとしている。
     既に妻帯していたものと思われ名を「琴尾」といい、明治四十三年まで存命だった様だ
      池田屋事件では、薬屋に化けて乗り込み浪士の動向を察知。
     密会があるのを報告し、鍵を外してから浪士らの刀を隠した。
     そして近藤らを屋内から誘導して斬り込ませた。
      しかし、後日の褒賞金授与の中に山崎烝の名が洩れている事から、
     池田屋参戦は無論の事、事前探索活動もなかったとみていいだろう。
      慶応元年二月の山南切腹に際しては、神崎一二三とともに頼越人として
     光縁寺に出向いている記録が残っている。
     屯所に松本良順が尋ねて来た際は良順に、西洋の救急治療法を習い
     「我は新選組の医者なり」とオドケテみせた事もある。
     これが「山崎烝は医者」といわれる噂の元ではないだろうか。
     慶応元年十一月永井主水正尚志に従い広島に出向いた記録もある。
      一説では、長州の動向と伊東らの監察が目的とも云われている。
     翌年まで長州探索を行ない、六月には佐藤安二郎に報告書を託しているが
     帰京時期は不明である。慶応三年幕府取立ての際は副長助勤として見廻組格を賜る。
     同、二十四日は土方らと共に柳原前光と正親町三条実愛のもとを訪ねて
     公武合体を請願し、九月十四日には鷲尾隆聚邸へ不審人物の捜査に赴いている。
      山崎烝の最後は、かなり謎な部分が多い。
     子母沢寛は、富士山丸から水葬と伝えているが島田魁は「橋本にて討死」と伝え、
     永倉新八は「大阪浪士で銃痕死」と伝えている。
      横倉甚五郎は「淀にて討死」と伝えており、江戸引き上げの乗船の欠けらもみられない。
      ただ近藤芳助は「大阪の京屋忠兵衛宅で確かに見認候」と書き残し、
     水葬どころか、乗船も認めていない。
     芳助は「重傷にて遺骸は大阪にあらんか」ともいっている。
     だが、実家である林家では、船中死亡が伝えられている。
     顕光院貫月義実居士の戒名が授けらている。
      一般の記録では、慶応四年没といわれているが定かではない




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